小説「京都 リ・バース」 2 城塞の姫君(3) 東の都編
◇◇◇
日本。
この世界での時間経過で、十二年。
十二年前にも、『彼』はこの国に居た。
『僕は、この国が好きですよ。恐ろしい体験をした土地でもありますが。
ここには、あの人が眠っている』
感傷的な言葉を振り切るように、足を早める。逃れることは出来ないと承知していたが。
『思い出せませんか? そんな大切なことも?』
「……お前の記憶にある限りは承知しているがな……」
『そうですね。僕の記憶。共有している以上、筒抜けかな……。
ですが、僕は何も知らない。知らされてもいなく、ただ、あなたにこの身体を利用されただけだ』
成田空港内は広かった。多くの人間が行き来して、様々な顔、髪、肌の人種が交錯していた。
少し息詰まる。烏合の中の一点。今は、そんな頼り無さが、『彼』をひりひりと苛んでいた。
『僕が覚えているのは。……一々、上げる必要はありませんね。あなたもそれだけは覚えていた。
あの人の素肌の感触と、忘れられない眼差し』
『彼』の胸に一滴。毒液が落ちたかのように、苦い感触がじわじわと広がってゆく。
……ああ、そうだ。
この国で、もっとも欲していた女を失った、のだ。手に入れる寸前で。永久に。
その事実は認識できるが、悔しさも敗北感も湧いては来なかった。まるで他人の出来事のよう。感情をわかせるための、執着心も今は失われていた。ただ、苦い何かが胸に広がるのは事実だった。それは、この肉体の持ち主のものではなく、自分の心の中であることに間違いはなかった。
『で? 思い出しましたか? あなたが再び、ここに来た目的が何なのか?』
忌々しい声が、頭の中で試すように尋ねてくる。この声の存在は唯一、彼の感情を波立たせる。
『真っ直ぐ進んで下さい。誰かにぶつかるのも止めて下さい。肉体が痛むだけです』
痛む。ああ、この肉体はかなり脆い。だが。
『そうですよ。僕は、あなたにとって存在する価値がある。
あなたが手落としてしまった記憶を、僕と居れば、取り戻せるかもしれないのですから。
……僕を消してしまおうなんて、考えないことです。消してしまいたいのは、お互い様なんですから』
全く忌々しい。次々と指図されている。指図されなければ、他の人間にぶつかるか突き飛ばされそうになるかで、舌打ちをされる。どこへ行くべきかもわからないのだから。
『追い越さないで。順番を、秩序を守ることが、この世界のルールで常識です。
右側の列に並んで下さい。それと、内ポケットからパスポートを』
入国審査の掲示板を目指したいくつもの行列。甲高い発音で喧嘩越しに会話する東洋系の一団、長身の白い肌の欧米人。彼等の間をなんとかすり抜けて、ゆっくりとした列の前進についていく。
『それと、そんなに怖い顔はしないで下さい。飛行機で一緒だった女の子に向けたような笑顔を。
無理なら、僕に譲って下さい。この場は』
「お名前は?」
「ティアリス・クランです」
「観光旅行ですか? ご職業は……、ドクター?」
「それも兼ねて。研究会に出席するために来ました」
「ずいぶんと、日本にお越しいただいているようですね」
「大好きなんです。この国が。それと、出来れば会いたい女性も居るので。
十二年間。ずっと、探していたんです。やっと、会えそうな機会が来たので」
「それは、適うといいですね。良いご旅行を」
「ありがとう」
『お前の目的は何だ?』
「目的? そんなこと、わかっていることでしょう?
あなたに、僕の身体は譲らない、それだけです」
『……』
「何が可笑しいんですか?」
『お前は、私だ。最初から、そう言っている』
「……『私』『私』『私』!
その『私』とは何なんですか? あなたは、自分が何者で、何の為に何をしようとしているのかすら、忘れてしまっているのに!
覚えているのは、僕の身体があなたの器、それだけ!」
『お前が拒んだからだ。私の復活を頑強に否定し』
「……そのせいで、記憶の再生が不完全に終わったようですね……。
僕には好都合だ。ずっと、何も思い出さずに居ればいい」
『十二年間、探している?』
「……」
『誰を?』
「…………」
『何の為に?』
「…………」
『……好きにすればいい……』
時間はある。十分なくらいに。彼の感情は、不気味なくらいに静かだった。
とはいえ。『ティアリス・クラン』として振る舞うことは、かなりイラつかせた。
煩雑な入国手続きに伴う諸々。何度となく待たされること、全てが『彼』には理解できない。
面倒なことは『クラン』に押し付ける。名前や過去すら忘れていながらも『キング』はその高い自尊心だけは染み付いていた。
◇◇◇
しまいには、家政婦頭の塚野に遮られ、池谷はやっと舞から解放された形となった。
それでも舞は、池谷が返答に困るような質問をすることはなかった。利発な子供。自身の好奇心を素直に表すが、相手への配慮も忘れない。その真っ直ぐさに、池谷自身、つい立場を忘れて引き込まれ、時間を忘れてもいいと感じていたくらいだった。
「そんなに沢山お喋りになって、御本家の皆様方のお名前をもうお忘れになったのでは?」
舞は口を継ぐんで、少し考えてから。こくんと肯いた。
「ちゃんと覚えています。大丈夫です」
「さあ、どうでしょう。皆様の御前で失礼がありはしないか、塚野は心配で心配で」
ずけずけと切り返す塚野に、舞の方は涼しい顔。
「ふふ。嬉しい。では。私が帰るまで、ずーーーっと私のことを考えていてくださいね」
と、言ってのけ、頬に小さな笑窪を作った。
「そのようにさせて頂きます」
頭を下げた塚野。舞はにこにこしている。
池谷は、二人に気付かれないように苦笑した。
主従の立場でありながら、お互い遠慮が無い。それぞれに心を許している証しだと池谷は受け止めていた。
「私も、お見送りさせて頂いてもよろしいですか?」
本来なら、一介の営業マン如き、許されるはずもないのだが。塚野は了承してくれた。
プリンセスをエスコートする栄誉まで、舞は小さな手を差し出し無邪気に与えてくれた。
正面玄関の扉が開くと、玄関前のスロープに白いセダンが回されていた。後部座席周辺をフル・スモークで隠している以外は、ありがちな高級国産車ではある。だが力強いエンジン音、ラグジュアリーなデザインのホイールながら、見えるのは大型のブレーキ・キャリパー。運転席の男は、どんな事態が起きても対処可能な、高度な運転技術を要しているのだろう。
舞が乗り込み、閉じられたドアの重みのある音も、この車が特殊な装備を隠しているのだと推測できた。運転席と助手席の二人はボディ・ガード。全てが、十二歳の少女を守るための道具だ。
池谷は、塚野から一歩下がった位置で、舞を見送った。
顔を上げると、下げたウィンドーから、舞は手を振っていた。
静かに、スロープの天井近くから、軽やかな鐘の音色が広がった。
白いセダンが遠のくと、塚野は沈んだ目をした。それに気付かないふりをして、池谷は続いてスロープに回される自分の車を待った。池谷に向いた視線はいつも通りの、毅然とした家政婦頭の顔立ちだった。
「それでは。また、お邪魔させて頂きます」
正門へ向かう白いセダンの背後に、もう一台、全く同じセダンが後に付いていた。二組目のボディ・ガードのチームであろう。
舞の乗った車を追うように、邸内の木立や屋敷の両翼から鐘の音色が順番に広がって行く。
舞の外出を、邸内の使用人達が互いに知らせ合う鐘なのだ。
以前、塚野から聞いたことがある。仰々しいお見送りやお出迎えをしない代わりに、鐘の音色で舞の去帰を使用人たちに伝えるのだと。使用人たちは、それぞれの仕事場で、瞑目して舞を送り、迎える。鐘を鳴らすのは、使用人たちが自発的に望んだことだと。
ハイテクからだけでなく、人にも護られている少女。
池谷自身、雪村舞と短い時間、会話をしただけであるが、彼等使用人たちの想いが理解できる気がした。彼女が生き生きと暮らす時を共有したい。舞が何時でも健やかに、ここで暮らせるように願って自らの職務を完遂させる。
舞は、この鐘の音を門を潜るまで窓を開けて聞いているのだという。
深窓の姫君を送り出して、新緑の濃い城塞は、ぽっかりと穴が空いたような寂しさが漂う気すらした。
池谷は自分の車を走らせ正門を抜けた。背後でぴたりと厚く重い門が閉じる。
すでに白いセダンは見えない。山を下るまでは一本道。後を追う形になるのも憚れるので、しばらく走らせ、路肩の広い場所で車を停めた。耳に携帯電話のイヤーセットをかけ、端末を操作し番号を選んだ。
「池谷です。ただいま、お届け致しました」
「そう。ご苦労様」
はっきりとした口調の、凛とした女性の声が耳に広がる。
「お品物は、大変、お喜び頂きました」
あまり関心が無いようで、返ってきたのは沈黙だった。
「マダムのデザインは、大好きだと。
どれも、誰かとしっかりと結ばれているようで、安心感があるとおっしゃっておいででした」
「まあ。そんなお話しをしてくれるなんて。珍しいこと」
そう言いながらも、言葉に熱は無かった。
「はい」
「……なにか、お寂しくさせるような事でもあったのかしら」
彼女は想いを馳せるように言葉を切った後、思い当たり、強い口調で尋ねてきた。
「あなた、また余計なことをお話ししたのでは?」
形の良い眉をひそめている顔立ちが目に浮かぶようだった。誤魔化しても簡単に見透かされるのはいつものこと。池谷は正直に詫びた。
「申し訳ございません。
結の部分の造りはすべて、いつもマダム手ずからなさっていると、お伝えしました」
「ほんとに、余計な」
ますます、迷惑な口調。
「……伏してお詫び致します。
ですが」
少し車の窓を下げ、まだ瑞々しい風を入れた。
「あの方の、心からの笑顔が見たかったものですから」
「……自分、一人で? ずるいこと」
造ったのは私なのに? 暗に責めている。
「マダムに、心から感謝致します、と。愛らしい笑顔でおっしゃいました。
ぜひ、お会いしたいと」
「ほんとうに、あなたは困った人ね。それ以上、私たちに踏み込むなら、辞表をお書きなさい?」
さてさて。逆鱗に触れる前に、かわさなければ。
「勿論。丁重に、ご遠慮致しました。
舞様も、それはお察しの上で」
『いつか。直接、マダム・結にお礼がお伝えできる日を、いつまでもお待ちします』
「上出来ね。今日の、この日。あの方に、未来へ続く約束をさせたことは。評価します」
電話の向こうの女性は、続いて独り言のように小さく呟いた。
「……適えられるかは、わからないけど……」
池谷は、その言葉は胸の内にしまった。
「それと。少し気掛かりなことが」
「?」
「舞様を直接警備する者の顔ぶれが、全員変更になっておりました。少々解せません」
「相変わらず、良い記憶力ね」
彼女には見えないが、池谷は頭を下げた。
「何か、あるのでしょう。……今日から、変わってゆくのかしら……」
父親が造った城塞を、静かに踏み出ていった姫君。彼女に送ったマダム・結の二重のベール、上品な喪服。それらが舞を護る鎧の一つになればと、池谷も強く、煌く新緑に祈った。
※ 2 城塞の姫君(3)完 3 タクシー・ドライバー に続きます。