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更年期

ツノが生えたんだけど、と妹が言う。どれどれ、と明るい茶色の髪をかき分けてみるとつむじのあたりに何か突起のようなものが見えたので触れてみる。思ったよりも繊細なつくりをしている。虫眼鏡をかざして驚く。
「なんか先が枝分かれしているね」
「枝分かれ」妹のオウム返しにうなづく。これは、
「これは、ツノゼミのツノによく似ている」
なにそれ、と言って妹が頭をまさぐる。
妹は忙しい。その忙しい仕事や家事の合間をぬって私に会いに来てくれたのは、なんだかよくわからないものがあらわれ不安になったからだった。息子のタクトはカッコいいよと言って笑ったという。
「どうしよう、なんだろう?何科に行けばいいのかな」
「とりあえず総合病院じゃない?」
そうか、とうなずく妹と一緒に、駅のそばにあるあまり大きくはない総合病院へ向かった。

混んでいることを予想して来たのたが、思った以上にすいていた。受付は機械がやってくれて、べーっと整理券を吐き出した。
15番。今から総合内科を受診するのは妹を入れて15人いるということで、まずはどこにかかるのかを相談してから、というのがこの総合病院のやり方らしい。待合室で順番を待っている間も、妹はしきりにツノをいじっては、なんか大きくなっているよ、と呟いている。あんまりいうのでツノを触りながら同じだよ、と言おうとしたとき、目の前の引き戸が開いた。曲田さま、と呼ばれた妹が立ち上がる。離婚した旦那の苗字のままだ。

「うん、これは更年期外来だな」
総合内科のおじいさん先生は当然のようにそういった。更年期外来、それはつまり婦人科で2階の突き当りにあった。待合室にはおなかの大きな人もそうでない人も、若い人もお年寄りも私達のような年頃の人もいた。6人くらいしかいないのに、年代も見た目もばらばらで目的もそれぞれ違うのだ。

妹はファイルのようなものを渡されて、3階にあるレントゲン室へ移動した。3階でレントゲンを撮ってから4階に上がって採血し、ようやく婦人科診察室から呼ばれるまでに、最初の総合内科を含めると1時間が経っていた。

私たちと同じくらいの女医が妹の胸の音を聴いた後、軽くうなずいてから聴診器を首にかけなおした。
「ツノゼミ、ご存じですか」
いろいろな種類がありますが、ごく小さな昆虫でセミやカメムシの仲間です。そう言いながらパソコンに打ち込んでいるのは、今聞かせた虫の話しなのだろうか。手を止めてこちらを向いた。
妹はツノゼミになるのか、そう思うと羨ましくなり自分にも生えてきていないかなとつむじを確かめる。カフカのザムザのように虫になってしまうのか。人の形をした妹と会えるのは今日が最後だったりして。
「曲田さんの場合はたまたまツノゼミのような形をしたものが、表に出たというだけのことで」女医は自分の鼻の頭を指さして、
開いた毛穴を爪で押すと出てくる、固い油脂の塊なんかに近いかもしれませんね、と付け足した。
「ツノと更年期とどういう関係が?」妹が訝し気に詰め寄る。
わかりません。と女医はいった。
「わかりませんが、このところ増えています。大気汚染やマイクロプラスチック、温暖化が更年期症状になんらかの影響を与える可能性があり、このような症状もあらわれるという論文が発表されているようでして」女医はなんとなく自信なさげにパソコンに目をやりレントゲン画像を開いた。
「レントゲンの結果、悪性、良性とも腫瘍ではないですし、細菌感染のためにできたものでもありませんから」
お薬をお出ししますね、漢方薬にしておきましょうね。では2週間後、と女医は首を少し傾けてにこりとした。

もらった薬は何かの茎がざくざくと刻まれたものだった。どうやら煎じて飲むらしい。煎じ薬は見るのも初めてだった。妹はやかんで水を沸騰させ一日分の薬草を放り込み20分間弱火で煮出したものに、おそるおそる口を付けた。
「ありちゃんも」と妹が差し出した湯飲みにはメジロのような色の液体が入っていた。妹は私のことを下の名前で呼ぶ。
「だめだよ。薬なんだから。減っちゃったら効き目が減るんじゃない?」
「大丈夫だよ。1杯くらい。」
1杯もいいよ、と一口すする。あれ、なんだろう、この汁。
「甘いね」
「でしょ。」
もう一口すすりたくなるが返す。妹はよかった、よかったと喜んで飲み干した。色からして苦いと思っていたようだ。これなら続けられそう。でも、何に効くのかな、と薬の説明を読み始めた。冷え、イライラ、落ち込み、肩こり、頭痛、めまい、急な汗、のどの詰まり、虫化
「虫化?ってなんだろう」
とたんに妹がうろたえる。大丈夫、大丈夫。そう言って妹のつむじのあたりに目をやると、初めて見た時と同じ大きさ細かさのちんまりとしたツノがそこにあった。

「そうですか」
初診から2週間たち、私は女医と向かい合っていた。妹は処方された薬だけしか口にすることができなくなっていて、連れてくるのもどうかと思いわたしだけできたのだが、連れてきたほうが良かったのかもしれない。先生も見たかったのかもしれないし。
「本当にまだよくわかっていないことだらけでして、申し訳なく思います」
それでも女医はなんだか明るい目をしてホルモンの話をはじめた。閉経によるホルモンバランスの乱れ、これまでと違ってくる体、足りないもの、過剰になってしまうこと、気づくこと、無理をしないということ。
「どのくらいの大きさになられていますか」
「そうですね」
このくらい、と手のひらの真ん中に指で直径1.5センチほどの円を描いた。
「やっぱり」
女医がうんうんとうなづく。やっぱり、でしたか。と聞くと。はい、という。日本では本当にごく稀にしか事例がありませんでしたから。お伝えするのはかえってよくないと、申し訳ありません、と。
「ほぼ実寸ですね」 
はい、と応じる。
前回の通院後、すぐに妹は自分の家に帰った。仕事に行きスーパーで買い物をし息子が作るご飯を食べたり家事をした。友達と飲んだり出かけたりもしたようだ。3日前の夜、仕事帰りに私の家に来て泊まった。タクトは遺伝するかなとか言ってる。友達に見せたら更年期侮れないってさ。職場のスタッフはスピリチュアル?とか言ってさあ、と笑って話しながら眠りに落ちた。それが最後の会話だった。次の日の朝、えりの姿はなかった。仕事ないって言ってたはずだと思い、ラインをいれたが既読がつかなかった。携帯電話に電話をかけてもでなかった。夜になってもその次の日になってもメールもラインも見ていない。タクトの携帯電話にもかけたが妹から連絡はないといった。職場に連絡すると、昨日から出勤していないという。何かあったかと心配された。妹の友達にも連絡してみたが同じだった。よく行くスーパーにも、カフェにも、焼肉屋さんにも行ってみた。散歩コースをいったり来たりした。うつ状態になってどこかで?と思うといてもたってもいられなかった。いったん落ち着こうと部屋に戻ると、テーブルに妹の湯飲みがあって、薬を飲み干した名残りがうっすらとこびりついていた。そこに、見覚えのある細かい細工のとげのようなものが落ちていた。虫眼鏡で覗いてみると、それは妹のつむじにちんまりとしがみついていたあのツノとそっくりだった。ほとんど動かない。いや動いている。もしかして薬を飲んでいるのか。
「えり」
名前を呼んでも反応はない。それはそうだ。目の前にいるのはツノゼミなのだから。

どうしたらいいでしょうか。と聞くと同じ処方の薬をくれた。
もう、もどらないのでしょうか。
女医は、わかりません、と言った。
からだが変わるというのは、これまでと違くなる、役割りとか生き方とか。どんな形であれ。そう思うのはどうでしょうか。
明るい目でそう言うのでまた妹が羨ましくなる。

家に帰ると湯呑みの中に妹はいた。良かった。無事で。ツノゼミは跳ねることができるから、留守の間にどこかに跳ねていってしまい、帰ってきたとたんに踏み潰したら泣くに泣けない。

これから色々手配しなくては。まずはタクトに知らせなきゃ。どこでどうやって暮らしていくのだろう。職場に連絡をして、事情を話さねば。有休として様子をみるのかすぐに退職となるのだろうか。友達にも電話しないといけないだろうか。

やかんに水を入れて沸騰させる。煎じ薬を入れ弱火で20分煮出す。これからはそのあと冷まさないとね。やかんの注ぎ口から甘いようなにおいが湯気となって漂う。虫化って、虫になるのを促進する、の虫化だとしたら。湯呑みに注いでひとくちすする。メジロは目の周りが白いからかわいい。