「ひ・よみ」こぼれ話その4…「12月8日」
・開戦
小学校の担任の先生は、飛行機乗りでした。
マレー沖海戦に参加して、撃墜され、
そのおかげで「肋骨が半分無い。」
と、言っていました。
何かにつかまって一日海に浮いていたとか、
できるだけ遠くに逃げておかないと、
敵艦が沈むときに一緒に海に飲み込まれてしまうとか…。
子供心に、「轟沈」という言葉が頭に残りました。
もう50年以上前の話です。
最近、調べてみたところ、
「元山航空隊九六陸攻隊16機」
うち「第一中隊三番機は撃墜」とあり、
先生はこれに乗っていたのかな、本当なのかな、と思っています。
先生は山好きでした。
そのために今の私の「自然嗜好」が形成されたのかとも思います。
・鎮火祭
12月8日は鎮火祭の日でもあります。
これで、場所が特定できてしまいますね。
でも、現在は機能していませんから。
1981(S56)年を最後に中断していましたが、
2007(H19)年より再開されたそうです。
平日だと地元の小学生が参加、休日だと大人ばかり。
一度だけ参加したことがありますが、
この地方で晴天の多い冬の季節の青空に、
もくもくと上る煙を見ていると、
年末の慌ただしさもどこかへ行ってしまいます。
「熾火が灰にちゃんと隠れていないよ。」
という状態なのに渡るのを促されて、
足の裏に少しヤケドをしました。
終わりには柚子をもらって帰りました。
丸ごとお風呂に入れたんだっけ。
やたら神主さんが「年の瀬」を強調していたなあ。
「年の瀬に 善男善女が 神の庭」
…お粗末。
この時期は、風も強く寒い日が多いので、
また参加したいのですが、なかなか願いは叶いません。
・鍵となる日付
最初私は、問題の日付は、
「平」を分解して、「一+八+十」だと思っていました。
1+8+10=19
これでは足して20になりません。
20になることが要件でした。
のちに「|」だけでも「10」を意味することがあるのを知り、
「平」は「二+八+|」となり、
2+8+10=20
合計20の問題は解決しました。
2月18日、8月12日、12月8日が候補になりました。
意味のある日付はどれなのかと思って探していましたが、
偶然、その神社の前を歩いて通った時に、
「鎮火祭12月8日」
という表示が目に入ってきました。
「これだったのか。」と気付かされた訳です。
・開戦の意味
これで、「12月8日」=「開戦」=「鎮火」
という式ができあがりました。
先の大戦は、
燃え盛る白人の狂「火」を「鎮」めるためのものだったのです。
神の目的は、植民地を解放すること。
虐げられた人々を解放するため。
これ以上、白人たちに罪を重ねさせないため。
日本の進軍がきっかけとなって、
どれだけの人々が植民地から解放されたのか、
戦後、どれだけ多くの国々が独立できたのか、
を考えてみる必要があります。
あの戦争がなければ、
アメリカの有色人種の差別も、しばらくは続いていたと思われます。
当然、あのままでは済まされないので、
世界大戦は遅かれ早かれ、行われたことと思われます。
兵器の技術革新を考えれば、あの時点が最良だったと思われます。
後になればなるほど、核兵器も高性能化してしまいます。
靖国神社(※)の英霊も、ただ単に国を守っただけでなく、
神の手足となって殉じた方々なのです。
ただし、政府、軍部などの増長を防ぐために、
戦争に勝利する訳にはいかなかった、ということです。
いまだに、戦争の敗因について語るものがありますが、
もし勝っていたら、どうなっていたと思うのでしょうか?
隣の大陸の国と大して変わらなかったでしょう。
日本国民への国家の弾圧は、より熾烈になっていたと思われます。
開戦も終戦も、最良の時を神が選んでいたのです。
※ 靖国神社は「国家神道」の施設です。本来の神道の施設ではありません。本当の神道施設、神社であるならば、なぜ伊勢神宮の境内に、靖国神社も護国神社ないのでしょうか?
西郷隆盛も江藤新平も反逆者とされて祀られていません。彼らがいなければ明治維新は失敗していたことでしょう。維新政府への不満を懐柔するために彼らは反逆者となったのです。彼らが生き残っていれば、日本はもっともっと良くなっていたことでしょう。
形式としても主祭神がありません、寺院でいうご本尊のようなものです。
英霊となったばかりの御霊を導く存在がありません。
神といいつつも、従来の神と英霊を区別しているのです。
神社本庁も、内実は国家神道の継承機関です。
靖国神社は、私の仕事場からは至近でしたが、一度も参拝した記憶がありません。一度、境内に入ったぐらい。明治神宮には、友人が上京した折に案内して、といっても私自身が知らなかったので、迷ってしまいました。以来一度も参拝したことはありません。
・先々のこと
いつ現実戦が起こるのか、ご心配されている方々も多いことと思います。
しかし私は、戦争は起こらないと考えます。
大量の兵を外に動かせば、手薄になった部分から内乱が起こります。
あれだけ各段階で着服の行われる国です。
現場では、資金繰りがつかず、ハリボテの装備になってしまいます。
一発必中の人工衛星打ち上げロケットでさえ、よく失敗して村が全滅とか。
何百と核ミサイルがあるといっても、
まともに維持管理されていて、即座に発射できるものがあるのでしょうか?
せいぜい怖がっているフリをしてあげましょう。
サイバー技術が発達していると思われているのは、
上記の着服を経る段階が少ないため、どうにか、まともに動いているということです。
半島の付け根も同様です。
最初、東岸から打ち上げていたものが、どうして西岸からになったのか?
飛距離だけ向上しても、どちらへ行くか分からなければ、他国に入ってしまっては大変と、西岸に発射地点を移したものと思われます。
失敗して他国といざこざになるよりも、自国内で処理しよう、ということです。打ち上げて数秒が成否の分かれ目。
どちらにしろ、彼らには自滅の道しかないのです。
その時に生じた混乱に、どう対応して行くかが問題になります。
伯母の揮毫した石碑が、尖閣の魚釣島にありますが、現在ではネットでも確認できません。
以前、一度だけ弾痕と赤ペンキで汚された姿を確認したことがあります。
大伯父は芦田小委員会の一員でした。
発言はほとんどせず、芦田が中座した時、代理で進行をしていたようです。父親同士が、国会で同一会派を作っていたこともあり、同い年の芦田とは幼馴染だったようです。
参加していたことを一切実績とは考えていなかったようで、書籍にはまったく記録がなく、ネットの時代になって初めて知りました。発言をしていないので、当時の新聞にも名前は掲がらず、気が付きませんでした。
議事録を読んでみると、どうせアメリカさんがいる間だけだから、この件についてはこのぐらいでいいか、という雰囲気が随所に出ています。
その父、私の曽祖父の一人は、台湾領有が決まった直後に自由党代表として最初に台湾の地を踏んだ人です。
西南戦争の折には、郷里から船で応援に駆け付けようとして、港で取り押さえられたような人です。
当時の演説の写しが2点、国会図書館に残っていましたが、見事に双方とも中断させられていて、「弁士中止」を現実にくらっていた人でした。そのせいか青年部を指導して、演歌(当時は歌の演説の意味)を考案し、今でいうゲリラライブをやらせて、政府批判をしていたのでした。
私には何の力もありません。
それどころか、類稀なる人生の落ちこぼれであります。
それでも、血が何かを語らせたがっているのかも知れません。
長文をお読み頂き、有難うございました
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