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「ひ・よみ」…第5回4.麻賀多神社

4.麻賀多神社

4-1稚産霊命(ワカムスビノミコト)と天日津久神の関係

本来の天日津久神社の位置は、本殿の向かって右、
現在、神楽殿ができている場所の前に、依り代の木があって、
その根本の地面近くに据えられていました。
確かスギだったと思います。
麻賀多神社の他の祠とは、まったく違った位置・高さに据えられていたのです。
質素な木製の祠で、
参拝するときには、
丁度小さな子供さんに話しかけるような姿勢にもなりました。
まるで何かあった時には、すぐに稚産霊命が天日津久神を小脇に抱えて、保護することができるように、という感じでした。

これらの状況から、天日津久神は「幼神」であると考えられます。

天日津久神が、どうしてアマテラスの幼名かというと、
前述の「アマテラス」のところで述べたように、
「天日月」が「天照」とほぼ同じ意味となることから、
そして、稚産霊命は子育ての神で、天日津久神はその神に預けられている、
と考えることができるからです。

ワカムスビは、伊勢の内宮のアマテラスの姉、外宮のトヨウケヒメの母とされています。
これ以上に適任の神はいないでしょう。

社紋の「麻の葉紋」は赤ちゃんの産着を表しています。

「おおもと」では月日様または月日大神様としてでてくるものが、天日津久神と思われます。

4-2麻賀多神社の謎

麻賀多神社については、不思議とだれも口にしないことがあります。
現存が確認される、国幣社「延暦17年(798年)制定」で、式内社でもあるのに、維新後の近代社格制度で何の指定も受けていない様子で、静かな村の鎮守様の雰囲気であることです。

麻賀多神社は「平将門の乱」(天慶2年、939年)のときに、将門側につくことを宣言して、式内社から除外されてしまったという説があります。(※1)。

これが本当だとすれば、
「延喜式神名帳」の、905年(この年に平将門は生まれています)に編纂開始、927年に完成、967年に施行、という千年弱の「延喜式神名帳」の歴史にあって、
麻賀多神社が式内社(※2)であったのは、わずか十数年しかなかった、
ということになります。

※1 「平将門」関係の書物で10年以上前に知ったことです。この大事な問題提起の出典を示すことのできないことをお詫びいたします。少しずつ探索を進めているのですが、何分、目が不自由になってしまっているので、いまだに再確認できないでいます。

※2 延喜式は完成後、施行までに数度の改訂があったようですが、神名帳に関しての完成後の改訂は、私自身、専門家ではないので確認不能の状態です。
上記の説が本当であれば、現在の「式内社」という表示は、維新の折に律令制度が廃止されるまでの間、式内社であった訳ではないので、数年前までの「旧式内社」の表示でよいと思います。「式内社」では誤解を招くことになります。

この後、将門は、朝廷に背いた逆賊とされてしまいます。
それでも、麻賀多神社を守って来られた、関係者、氏子の皆さんには本当に頭の下がる思いです。

麻賀多神社の南方にある、宗吾霊堂で祀られている佐倉惣五郎も、九州の平家の落人の里、五家荘から養子に来たという言い伝えもあり、平氏の血を引く人物です。
将門との類似性が見て取れると思います。

佐倉市大佐倉には「将門口ノ宮神社」という二人を祀る神社もあります。

また、大伴家持が「麻賀多神社」を訪問しているとのことです。
これは家持が上総の国司となった774年以降のことかと思われますが、他の職務も兼務していたため、詳しいことはわかりません。

・将門との関係

ここで平将門と麻賀多神社の関係を見てみましょう。

麻賀多神社から南西に5kmほどのところに、大佐倉八幡神社があります。
この神社は、将門の父の平良将(良持)が居館を構えた地、ともいわれています。
とすれば、将門は相馬で育った、とされていますが、
この周辺で生まれ育ったとも考えられます。
至近には、いわれは定かではありませんが「将門町」という地名も存在しています。

もし、将門がこの周辺で生まれ育ったとすれば、麻賀多神社は将門の産土(うぶすな)神として、将門をずっと見守ってきたことでしょう(※3)。

※3 YouTube「taka waki」さんの「麻賀多神社 神気の舞」という動画にコメントされている「檸檬蜃寧」さんの炯眼に驚嘆せざるを得ません。二三回見ればわかります、0:30以降。

よく将門を田舎侍とする意見を耳にしますが、
菅原道真の三男の景行が、24年間、下総守から常陸介として赴任し、学問所も開いています。
万葉集の東歌に残される、東国の人々の暮らしぶりは、かなり贅沢でありました。
京都の貴族たちのたちの言葉が理解できなければ、京都へ行って、すぐに警護に当たるということも不可能だと思います。

この時代は、のちの後醍醐天皇が理想とした、「醍醐天皇」の御代で、
しかも、京都で将門の仕えた主人は、
延喜式を完成させ、のちに摂政や関白、太政大臣となる藤原忠平(道長の曾祖父)です。
将門は、定員20名ほどの「滝口の衛士(天皇の側近の警護を行い、武術だけでなく容貌美麗が条件であった)」も勤めています。

将門の終焉の地、茨城県の岩井、今の坂東市が、将門の本拠地であったといわれますが、成田山新勝寺(成田不動)の位置を考えれば、朝廷は明らかに麻賀多神社を意識しています。
麻賀多十八社といわれますが、この範囲が将門の拠り所だったと思われます。

「…不動明王殿も力あるに、あそこ迄落してあるは神に都合ある事ぞ。…」(雨の巻 第十三帖)

将門亡き後、簡単に廃止されてしまいそうな麻賀多神社が、どうして残ったのでしょうか。

ここで重要になるのは、
麻賀多神社のある「稷山(アワヤマ)」という地名です。
「稷山」とは「アワ八間」(アとワ、の間に八つの間隔がある)という意味で、「五十音図」を表します。
伊勢神宮の「伊勢」(五十)も「五十音図」のことです。
五十鈴川という川も流れています。

二つの「五十音図」を上下に対称に重ねた形、
上は「アイウエオ」下は「オエウイア」、
を「百敷(ももしき)」といい、形から「田」ともいいます。
そして、成田山新勝寺の名称は「田を成す山、新皇(平将門)に勝つ寺」となっています。

将門を討った武将たちであれば、麻賀多神社を破壊することなど容易であると考えられるのに、それをしなかった。
ということは、麻賀多神社が「東のイセ」であるとする認識が、存在したのかもしれません。

東西のイセが合体することにより「田」が成就するのです。
そしてこれは後程説明しますが、
「フジ・ナルトの仕組み」と直結しています。

よく、将門信仰の人は、成田山に行ってはいけない。
というようなことを耳にしますが、気にしなくて結構です。
当時は敵対していたかもしれませんが、それぞれ国や人民を思ってのことで、和解は済んでいます。心配しないでください。

樹齢千三百有余年とされる境内の大杉も、将門との関係が疑われます。
林木測定学では、樹齢何百年といわれる御神木が、台風などで倒れた時などに年輪調査を行うと、だいたい二三割減の値が得られるといいます。

麻多賀神社の大杉であれば、
1300 × 0.8 ~ 0.7 = 1040 ~ 910 年が実際の樹齢と推定されます。
計算を簡単にするため、現在を 2020 年として、

将門の生没年 905 ~ 940 年との隔たりは 1115 ~ 1080 年。
推定される樹齢 1040 ~ 910 年と、
将門の時代とは大きくは異ならないと思われます。

千葉県では、ほぼ同等の大きさである「清澄寺の大杉」が、国の天然記念物に指定されているのに、麻賀多神社の大杉には「国の文化財指定はない」というのは、将門との関係をいぶかってのことかも知れません。清澄寺は平将門を大悪人とした、日蓮ゆかりの寺院です。

将門を祟り神とする向きも多いことと思われますが、まったくの絵空事です。

将門の怨霊伝説は、
将門があまりに領民から慕われていたので、それを覆すために、京都で作られたものでしょう。
「領民たちの信頼していた平将門という男は、このような化け物だった。」
と仕立て上げるためのものです。
2月14日に茨城の岩井で打ち取られた首は、
4月25日に京都に到着したことになっています。
信じられますか?
当時にあっては、京都まで、腐らせないで持っていくことは不可能です。
晒し首どころか、とっくに白骨化しているでしょう。
まったくの作り話です。
他人の首を偽って用いる、ということも考えられますが、晒し首の様子が、貴族の日記など、当時の複数の資料に記録されていなければ信用できません。

「将門の首塚」もよく話題に上ります。
ここは、最初の神田明神のあった場所で、江戸時代にここから、駿河台、そして現在の湯島へと移転させられています。
将門に関しては、京都から戻された首ともども体も埋葬されたのではないか、と推定されています。
この場所が問題となるのは、明治7年になり、朝敵の将門を祭神から降格してしまったことに始まります。

以来、江戸庶民の反目が始まります。

のちの「祟り」の話は、「やっぱり将門は悪霊だ。」と、再認識させるためのものです。
東京にも、各地の人々が増えたため、これを信じてしまう人々も多くなってしまいました。

江戸っ子は騙されません。

神田明神で平将門が復権したのは、1984年(昭和59年)になってからのことです。

しかも、首に載っていた兜が落ちた「兜神社」のある「日本橋兜町」が日本の経済の中心地、というのは一体どういうことでしょうか。
「将門の首塚」と「兜神社」は近距離にあるので、
双方を訪ねて、感じるものを比較してみることをお勧めします。

将門はスサノオ信仰が篤かったといいます。
また河川改修や農地造成などの土木工事を領民のために行ったといいます。
スサノオが農業・土木・治水の神ということを理解していたためと思われます。

妙見信仰は、将門独自のものではありません。
関西から来た人々が、関東は平野部が広く、
西国のように、夜間に山影で位置を知ることができなくなり、
北極星を確認するようになったということです。
そのための指極星である北斗七星も同様に信仰されました。

平将門が、日本刀を発明した、という伝説もあるようです。

将門の領内には「片葉のアシ」(※4)が自生していて、
これを見て将門は片刃の剣を思いつき、
軽量化と、峰に手を添えることができるため、
馬上での戦闘が飛躍的に有利になったと思われます。

※4 イネ科植物の葉には中央に主脈が走り、両側によく切れる葉縁があります。これが片側しかなかったというものです。

将門の乱にしても、冨士五湖のできあがった冨士山の貞観の大噴火(864年)での火山灰による、交通や農地の被害の影響がまだ残っていた、と考えられます。
まだ現地での徴税に当たる、地頭という制度が完備していなかった時代です。
直接、個人が税を京都まで租以外の税を納めに行かなければならなかった、ということと関係があると思われます。

神社など、基本的に将門の名が挙がっているものは、
将門一族の誰かの事績を、将門にしてしまったものや、
後世の将門人気にあやかり、変更してしまったものもありますが、
「一説に」として将門の名が出てくるものは、将門が迫害対象となっていた時代のもので、実際に将門と関係があり、将門以外の説を隠れ蓑としていると考えてよいでしょう。
これは将門が逆賊とされていたために、逃げ口上として別の説が作られたものと思われます。
隠れキリシタンのマリア観音のようなものです。
「神田明神」の「神」も当然、将門のことです。

「お天道様に顔向けできない」人々が祟りを恐れているだけです。

「この方 明神(みょうじん)とも現はれてゐるのざぞ、…」(地つ巻 第二十四帖)

今回、力が入り、長文になってしまいました。
文章の流れも、多々おかしいところがあると思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第一回にも書きましたように、
将門さんから頼まれていましたので。

#ひふみのふで #麻賀多神社 #平将門 #将門伝説

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