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庭師が読む『一汁一菜でよいという提案』

収録を終えて

後編の冒頭、「庭は家庭料理的であるべきだと思う。」と口をついて出た言葉に自分で意表を突かれたものの、それから日を置いて、その言葉の前後に連なる対話を聴き直すことを重ねるたびに、いよいよ深く納得する。そのような、不思議なラジオ体験となった今回。料理研究家・土井善晴さんの——ひいては、これまで様々に食事を重ねてきた有象無象の人々の——広々として巨きい肩の上に乗ってはじめて見えてきた庭を前にして、いつからか、自分はずっとこれを探していたのだという体感が、いまも続いている。

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註記

『つむぎさんの庭の入り口の写真』

『谷川俊太郎さんの詩の定義』

""佐藤学先生が『身体のダイアローグ』(太郎次郎社)の中で谷川俊太郎さんと対談してるんですけど、その時に谷川さんがすごくおもしろいことを言っていました。詩として成立する言葉と成立しない言葉がある。その違いというのは直感的にしか言えないことなんだけれど、詩にならない言葉というのは「うるさい」と谷川さんは言うんです。「わたしが、わたしが」と言い立てる詩は、どんなに切実であっても、うるさい。たった三行でも、「わたしが、わたしが」と言いつのる詩はうるさい。逆に、言葉が、詩人の「わたし」から離れて、自立している言葉というのは、言葉自身が静かで、響きがよいということを言ってらした。"" (『身体の言い分』p37-38)

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