街探シリーズ<23>たった3kmと短い佐須街道をゆく
明治維新のあと、甲武鉄道の開人口が増えた、中央線沿線と違い甲州街道の宿場町として発展した高井戸、調布、八王子などには歴史の足跡が幾重にも刻まれている。
例えば甲州街道の高井戸を過ぎて柴崎に差し掛かると、今は京王線の柴崎駅入口の標示がある。その対面にかつては、ひっそりと一体の地蔵様があった。それが最近は「深大寺案内地蔵」ののぼりが掲げられ、脇の往還が深大寺につながっているという道案内の役割を果たしている。
子の地蔵脇を入る道路が「佐須街道」で名前は物々しいがわずか3kmほどで、深大寺の御塔坂に着く。この佐須街道の読みは「さす」ではなく「さず」と濁る。元々は「深大寺道」といわれていた往還だが、昭和57年(1982)に佐須街道に変更された。
甲州街道からこのように短い道が設けられたのは、江戸幕府が甲州街道を五街道の一つにし、人と物の往来が甲州街道に集中すると、関東の名刹といわれていた深大寺が忘れ去られるのではないかと心配したため。門前町というには、少し長すぎるが、甲州街道を往来する人に、「ちょっと寄り道して、深大寺にお参りして行こう」と思わせるモチベーションの一つにしたのだ。
調布一番の豊かな農地が広がる
深大寺道が佐須街道に変わったのは、かつて佐須村の名主だった三郎右衛門の先祖が佐須豊後との乗っていたからといわれている。しかし、これではあまりに便宜的に過ぎるのではないかと思い調べていたら「佐須」には「焼き畑農業」の意味もあることが分かった。焼き畑農業は東北に多いが、肥料が乏しかった時代には、武蔵野台地でも行われていたとしても不思議ではない。そして長い年月をかけて焼き畑で佐須村の農地を豊かにしたことは十分ありうるのではないか。
焼き畑があったかどうかは記録にも残っていないし、考古学の遺跡も発掘されていない。ただ柴崎の深大寺案内地蔵を入り、佐須街道を行くと大規模な畑が広がり、庭先で野菜を販売する農家が多い。また、終点の御塔坂の手前には「深大にぎわいの里卸売りセンター」には地元のJAマインズの大規模産直店舗が出店しており、新鮮な野菜を求めて調布市内はもちろん、遠くからも買い出しに来る生活者が多い。
謎が多い虎狛神社の成り立ち
深大にぎわいの里卸売りセンターの近くにある虎狛神社もロマンを秘めた神社だ。創建年は588年で、これは崇峻天皇2年に当たる。645年の大化の改の57年前になる。この時代、実質的には蘇我氏が支配していたのではないかといわ畿内ではのちの天皇家を含む豪族がせめぎあっていた。そういう時代状況の中で、オオヤマツミ神の娘で、クシナダヒメの次にスサノオノ命の妻となり、大年神と宇迦の御魂神(稲荷神)を生んだ神大市比売を実質的な祭神として創建された虎狛神社は謎に満ちている。同神社の名目的な祭神は大歳御祖神(おおとしみおやの神)だが、神大市比売は神社の祭神になるときは「大歳御祖神」の名前で祀られることが多い。
「神大市比売」が表すのは、物々交換をするために人が集まるところであり「神々しい、立派な市」となる。虎狛神社は今は、平たく農耕神、食料神とされているが、本来の効験は市場の守護神だったのだ。
つまり虎狛神社は、野川の水運を使い農産物を運び、物々交換で生活に必要なものを補いあった「市」がたった場所が神社となっていったのではないか。焼き畑をすることで、草木の灰を肥料として豊かな土を作り上げた弥生時代の農耕者は、虎狛神社で定期的に市を開き、より豊かな暮らしを手に入れたのではないか。
だからこそ、畿内で力を蓄えたヤマト政権が、府中を武蔵国の国府とし、精神的支柱としての仏教寺院を国分寺に建造するなど、豊富な水のある国分寺崖線のエリアに目をつけることになったのだ。そして官制宗教施設だった国分寺が定着しな、このエリアには関東有数の古刹である深大寺が天平5年(732)に祇園寺が天平勝宝2年(750)に創建され、以後この2寺は虎狛神社とともに佐須・深大エリに住む人の精神的支えになっていく。。