街探シリーズ<10>石神井側川沿いの低地から石神井台の高台を歩く(後編)

武蔵関というのは、駅の名称であり、古来この地区は「関」と呼ばれてきた。江戸時代は武蔵国豊島郡関村であり、いくつかの変遷を経て、昭和24年に東京都練馬区関町となり、昭和53年のは関町が、関町北、関町南、関町東に住所表記が分かれた。つまり、この地域はもともと「関」と呼ばれており、関町となったのは比較的最近のことだ。
ちなみに大きな区分では、関町は石神井の一部と考えられる.「関」という地名になったのも豊島氏が石神井城の守りを固めるため、関所を置いたからである。また青梅街道を挟んで南が武蔵野市関前だが、これは武蔵野村関前が、「関村」の分村として発足したからだといわれている。
ところで、石神井エリアは最初は、石神井川の流域から発展していった。それは石神井川流域から様々な遺跡が発見されていることからも明らか。時代が下るにつれて、有力者が高台に館を作り、武器を蓄え地主(領主)化していった。この地域もまさに、そのような推移をたどっていったようだ。
いま、豊島氏が築いたとされる石神井城は、氷川神社になっているが、そこと石神井川流域は、かなりの高低差があり、攻める側からすれば、高台に向かって攻めるのは至難の技だ。逆に豊島氏にすれば、石神井川と富士見池を自然の堀とし、川のこちら側に関所を置いて守れば、一定の防御網を敷くことが出来る。

石神井台に聳えるオザキフラワーパーク

事実、テイクアウトの「茶の子」から西武新宿線の線路に沿って、しばらく行くと東京女子学院と年末のボロ市で有名な本立寺に行き会う。そこを過ぎて広い道を左に入ってしばらく行くと、青梅街道のバイパスとして開発された新青梅街道に此処を
ここを新宿方向に右手にしばらく行く間には、大型のラーメン店や和風ファミリーレストランの「郷」や「焼肉きんぐ」など、手軽に食事が摂れる店舗が続く。そして、およそ1kmほどいった交差点にあるのが、サミットストアをテナントにした「オザキフラワーパーク」だ。
もともと同地で農業を営んでいた尾崎家は、高度成長期には、練馬区が都市化されてきたこともあり、シクラメンなどの花卉栽培農家だった。そして、シクラメンがクリスマスの花として人気になるとともに、近辺に住んでいる人がたくさん「売ってほしい」と来るようになったため、いっそのこと生産から販売に転換しよういうことになった。
それが時代の節目である昭和45年(1970)のこと。おりしも持ち家を購入する家庭が増え、自宅に花を飾ったり、観葉植物を置く園芸ブームが起こった。そうした変化に対応して、オザキフラワーパークは街の園芸店とは一線を画し、全国的に見ても有数の規模の総合的グリーンショップに成長していった。
同店を特徴づけるのは、なんといっても2階の観葉植物売場だ。これは2代目の尾崎社長が仕入れた観葉植物がある時、一度に納品され、売場がないので、2階を整理して鬱蒼とした観葉植物売場を作ったのが最初。そのうちお客が、オザキフラワーパークに行ったら「ジャングル」があったと口コミで伝えてくれるようになり、一気に知名度がアップした。今では、同店は「植物園で観葉植物や園芸用品が買える店舗」と言われるまでになった。

オザキフラワーパークと公園群が形成する緑の空間

同店は1階の花苗売場から2階の観葉植物、園芸用品と園芸やガーデニング関連の用品ではないものはないほどの品揃えで、園芸愛好家にとっては時間を忘れてしまう店舗だ。テナントで入っているサミットストア石神井台店に品揃えされている商品までもが、ナチュラルなイメージがするほどだ。
かつて豊島氏が石神井城と関所で根拠地とした石神井荘は、今ではオザキフラワーパークを核にして、その周辺に石神井公園、善福寺公園、武蔵関公園、井の頭公園など、緑豊かな公園を配した「グリーンパラダイス」を形成している。元気があれば、オザキフラワーパークで花苗や洋品を購入するだけではなく、すぐ近くの武蔵関公園や石神井公園で、自然の花や木と話しをしたいものだ。



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