街探シリーズ<19>三鷹牟礼の里を歩く
三鷹市牟礼の最寄り駅は京王井の頭線の三鷹台駅だが、ここは牟礼の外れになり、中心エリアは駅前通りを10数分行った三鷹台団地のあたりになる。今では、牟礼は三鷹郊外の住宅地だが、現在の三鷹市域の中では、牟礼村の開発が始まったのは、大沢村、上仙川村と並んで1590年ごろと非常に早かった。1590年といえば、小田原の後北条氏が豊臣秀吉に攻め滅ぼされた年であり、関東に徳川氏が入部、関東平野がその後大きく構造変きっかけになった時期に当たる。
三鷹市牟礼は現在はイメージ的には、吉祥寺の郊外住宅地という感じだが、最初は三鷹エリアの先進地だった。その要因は当時暮らしを支える「農業」を成立させるうえで不可欠だった「水」があったからだ。大沢村には野川が、上仙川村と牟礼村には仙川が、畑作に必要な水を供給してくれたのだ。しかし、開拓当初はヒエ、アワ、大豆、ダイコン、ウリ、サトイモなどが栽培できるやせた土地がほとんどで、その後の武蔵野の畑作の代名詞ともなった「うどん」の原料である小麦さえ、最初はあまり育たなかったようだ。そして、明暦の振り袖火事のあと三鷹の下連雀や上連雀、吉祥寺本町や同北町の開発が本格化するのが1690年ごろであり、牟礼村の開発は100年も早かったのだ。
牟礼の里の高台から井の頭池を見下ろす
ところで、牟礼周辺の地形を眺めると、現在「牟礼の里公園」になっているあたりが標高約70m弱で最も高く、井の頭公園の井の頭池が最も低地になる。また、牟礼の里公園と道路を挟んで向かいになる高番山には、現在鎮守様として牟礼神明社が鎮座している。つまり、17世紀後半に幕府の茅場だった上連雀村、下連雀村、吉祥寺村などに開発の手が入るまでは、三鷹東部の中心は牟礼だったのだ。今でこそ牟礼は吉祥寺のベッドタウンになっているが、戦国時代末期から江戸時代初めにかけては、湧水を湛えた井の頭池の水資源は、他所に移せない宝の持ち腐れであり、かろうじて徳川入部から参勤交代の制度化で、江戸の人口が急増、水不足を解消するために、井の頭池を神田川の源流として「水道」施設とすることで、江戸のまちづくりに貢献したのだ。
小田原北条家の旧臣が牟礼開拓の中心となる
このように、牟礼の里は農業を営む上で、水がかろうじて確保できたことと、開拓を担う労働力があったことが他に先駆けて同地が開拓された要因だった。牟礼の開拓は小田原の北条氏の重臣で北条氏を名乗ることを許されていた高橋氏一族だ。牟礼の高橋氏の初代は高橋種資だ。この種資の祖父が牟礼高番山に関東管領上杉方の深大寺の抑えとして砦を築いて守った。つまり、牟礼の地は高橋氏にとっては知行地ではなかったものの、砦の守将として地元の人とはつながりが出来ていたようだ。それが、1590年の小田原落城を機に、高橋氏一族が牟礼の地で帰農する要因だったのではないか。
高橋種資は父康種や弟ら5名とともに牟礼野に居を構え、開拓に着手する。途中高橋種資は、北条氏直の高野山入山に随行して、牟礼を留守にするなど紆余曲折があったが文禄4年(1595)に帰郷、本格的に開拓に取り組み名主として牟礼の発展に努める。
労働力として大きかったのは、高橋氏には岩崎、板橋、浅野など家臣がおり、自家の一族だけではなく、それら家臣の一族まで含めればかなりの頭数が揃っていたこと。しかも農業であれば、女性も大きな戦力たり得る。要するに高橋氏の帰農は、一家4人の帰農という話ではなく、広い意味での高橋一族が数百人単位で入植したという事だ。
これは時代が下ること約半世紀の三鷹・下連雀の開拓で、明暦の大火で焼け出された神田の商人24人が、家族ともども一面の茅野に入植、農業の経験がない中で開拓に取り組んだのと比べるとはるかにレベルが高い。
そして、この牟礼の開拓がそれなりに成功を収めたのは、真福寺、大盛寺別院の墓地に「高橋」「岩崎」「板橋」「浅野」など高橋氏ゆかりの苗字の墓がずらっと並んでいることからも明らか。時代を経るとともに、これらの諸家は分家を繰り返し、同族を育てていったのだ。今でも牟礼の里を歩くと広大な農地を構える「浅野ファーム」を見かけたりする。
心のよりどころとしての神社と菩提寺
もう一つ牟礼の里のまとまりがいいのは、帰農した高橋一族の精神的な支えとして、天文6年(1537)に陣中鎮護として飯倉神明宮(芝大神宮)を勧請した牟礼神明社が、その後村人の鎮守様になったことがある。今でも擁壁工事や女坂を作る際、開村にかかわった一族が工事そのものを寄進したりしている。
また慶長6年(1602)には、日栄上人を開山として高栄山真福寺が創建された。以後同寺は池上本門寺の末寺となり、高橋一族及び家臣筋の諸家の菩提寺となる。
つまり牟礼の里では、日本人の開拓に不可欠な村社と菩提寺が早い時期に成立し、先進的支柱となっていたことも,その発展に大いに貢献した。しかし、そうして発展してきた牟礼も東京外郭環状道路の予定地に入っており、すでに予定地の買収もかなり進んでいる。これが実現すれば、400年前、高橋一族が剣から鋤鍬に持ち替えて開拓した牟礼の里は大きく変わるだろう。