街探シリーズ<21>豊富な水が支えた調布・青渭神社周辺4000年の旅
バスで三鷹から調布へ行くには、二つのルートがある。ひとつは三鷹通りから八幡前で連雀通りへ右折、塚の交差点を左折して境大通りを行くコース。道路がきれいに整備されたことと、神代植物公園、深大寺西参道があることから表通りのイメージがある。調布に用事があるときは、もっぱらこちらのバスを使っていた。もう一つはさくら通りからむらさき橋通りに入り、三鷹通りを行くルート。JAXAの本社があるかと思えば、諏訪神社、青渭神社、深大寺東参道を経て調布の旧布田宿に至る。ある時、別ルートがあることを知り、乗ってみたら歴史のニオイがしてにわかに興味を惹かれた。
水神様を祀る青渭神社
そこである時、名前に惹かれた青渭神社に行ってみようと思い立ち、青渭神社バス停に降りてみた。鳥居横には樹齢700年ともいわれる大ケヤキがそびえたっているが、割とこじんまりした佇まいの古社だ。「はて?」と思い説明を読んでみると、かつては社前の道路を挟んで5町歩ほどの境内がある広大な神社だったとのこと。そのかつての境内は、今は府中の都立農業高校の神代農場となっている。月2回の見学日ではなかったが、門が開いていたので入ってみたら、谷底に湧水をたたえた沼沢地が見えた。この農場では、高校生たちが実習授業で、湧水でわさびやコメを育てているらしい。
ちょっと行けば、今精力的に開発が進む調布の街になる。そこからわずか数キロの場所にある農場でわさびが栽培できるのは、まさに東京の懐の深さといえる。これはかつての青渭神社の境内が、国分寺崖線の中にあり、ハケから湧き出す豊富な水があればこそ。もし青渭神社が昔のままに維持されていれば、国分寺崖線に抱かれた幽玄たる神域だったに違いない。
青渭神社、深大寺は「水」が育んだ神域
ところで、青渭神社、深大寺のエリアは非常に水に恵まれた地域だ。青渭神社の隣は今は、調布市立神代小学校になっているが、石垣が校庭の周りを廻り、校舎は城郭をイメージした重厚なつくりになっている。神代小学校の脇の深大寺東参道を下ると、途中に神代植物公園の水生植物園がある。この中の小高い丘は、戦国時代の深代寺城の城跡になる。神代小学校はそれをモデルにしているのだ。
そして大きな窪地の底あたりに開かれたのが、関東有数の古刹といわれる深大寺である。ここもまた水に恵まれた土地であり、深大寺周辺には、ため池が満々たる水を湛え、地域をめぐる用水にはハケから湧き出た湧水がさわやかな音を立てて流れている。つまり青渭神社と深大寺は、神仏習合の江戸時代には、今以上に一体的に運営されていた。そしてそのキーワードになったのが「水」という事になる。
生活用水が豊かで4000年前から縄文人が住みつく
青渭神社の創建年代は不明だが、すぐ近くには縄文時代の遺跡が発掘されている。つまり3000~4000年前に居住地を探し求めていた縄文人は、青渭神社周辺の豊かな水に魅せられ定住を決めた。しかも同地が優れていたのは、湿地帯のように水場と住居が一緒でなく、低地にある水場とは別に小高い地に住居を作れたため、衛生的にも理想的な環境にあった。
そこでここに住みついた古代人たちは、干ばつの時にも枯れることのない豊かな湧水を利用して、コメ作りなどの農業を行うようになる。また、想像を逞しくすれば、古代人はきれいな湧水に育った「わさび」の原種に殺菌作用を発見、食物を保存することをできるようになったとも考えられる。このように考えると、青渭神社は今でこそ観念的に「水神様」を祀る神社に過ぎないが、かつての縄文人をはじめとする古代人にとっては、生活の場そのものだった。ちなみに青渭神社は、大地に滾々と湧き水をたたえた池があり、青波をたたえていたところから「青波天神社」とも称されていた。