真・物語「淡路島紀行」第3回「淳仁天皇淡路島配流の真相」
結構、無理があると思うが、公式には今の天皇家は、ずっと続いているといわれている。現在の今上天皇で126代とされているが、本州に陵墓がないのは、崇徳天皇と淳仁天皇だけだ。今回はこのうち、淡路島に陵墓のある淳仁天皇を取りあげる。
淳仁天皇は舎人親王の晩年の皇子で、父は3歳の時に他界。天武天皇の孫だが、有力な親族の後ろ盾のない状態で苦労して育った。若い時、大炊王と名乗った彼が、孝謙天皇の後、淳仁天皇となったのは758年のこと。大炊王は成長するにつれて、当時の藤原氏の氏の長者である藤原仲麻呂の知遇を得て、天皇にまで上り詰める。これは思わぬ幸運だった。
やがて藤原仲麻呂が、760年に皇室外で初めて太政大臣に就任、名前も恵美押勝と改める。一方、孝謙上皇は病みがちとなり、看病していた道鏡を寵愛するようになる。これを諫めた淳仁天皇を上皇は激怒、上皇と天皇は対立するようになる。これに恵美押勝の反乱が絡み、764年、ついに淳仁天皇は廃位を宣告され、5日後の10月14日淡路国に流されてしまう。
余談だが、旧暦の764年10月14日を太陽暦に直すと11月11日となる。これは、たまたま私の誕生日であり、私が生まれる1188年前に、私の出生地のすぐ近くに、一人の天皇が配流されたのだ。とはいえ、この事件と私の出生になんの関係もなく、まったくの偶然である。
孝謙上皇と淳仁天皇対立の要因
孝謙上皇と淳仁天皇の対立は、本質的には聖武天皇直系の孝謙と、天武天皇傍流の淳仁との皇位継承に対する意識の違いとする見方があり、かなりの支持を得ている。確かに天武天皇の晩年の皇子である舎人親王の七男という淳仁の出生は、当時としては傍流そのもの。そのまま忘れられてしまっても仕方ない存在だった。プライドの高い孝謙上皇からすれば、そんな淳仁天皇が道鏡の件で諫言してくるなど,許されざることだったかもしれない。
しかし、より本質的にいえば、もっと深い対立があったのではないかと想像できる。それは直接いえば「男系」と「女系」の対立ではなかったか。日本の歴史が中国の史書を含めて記録に残り始めたのは、紀元前後からだが、卑弥呼に始まり神功皇后、そして7世紀末の持統天皇に始まる女帝の時代と、日本社会をリードしてきたのは女性だった。
「古事記」「日本書記」に埋め込まれたメタファー
そうした女系優位の社会に反発した男系のリーダーは、ひそかに男系優位の考え方を記録二残していた。それが「古事記」「日本書記」のイザナギ、イザナミの国生み神話だ。
「古事記」の記述では、天の御柱を別々に回った後、再び出会った二神は、まずイザナミが「まあ、なんと愛しい男神よ」といい、その後イザナギが「まあ、なんと愛しい女神よ」という。その後、イザナギは「女性が先にいうのは良くないだろう」といいましたが、二神は婚姻を行いました。こうして生まれた子は水子だったので、葦船に乗せて流しました。次に淡島を生みましたが、これも子には数えません。
そこでイザナギ、イザナミの二神は高天原に行って、天の神々にうかがうことにしました。天の神々が言うには「女性が先に言葉を話したのが良くないようだ。帰って順番を改めなさい」と。そこで地上のオノコロ島に帰り、再び天の御柱を二神が回り、今度はまずイザナギが「まあ、なんと愛しい女神よ」といい、その後イザナミが「まあ、なんと愛しい男神よ」といった。
そうして生まれたのが、淡路島以下の大八島国で、次に石の神、土の神、海の神、風の神、山の神などのあらゆる神を生み、火の神を生んだことで、イザナミ神は命を落としてしまった。
女系優位から男系優位に時代の潮流が変わる
そして「古事記」「日本書記」のメインプロデューサーが、藤原不比等であり、「日本書記」を編集したのが、淳仁天皇の父親である舎人親王であることは、非常に示唆的だ。男系優位の思想が、わずか3歳の幼児に舎人親王から教え込まれていたはずはないが、女系優位を覆そうとする時代の潮流があったのではないか。そう考えると、淳仁天皇は女系側からの反撃の犠牲者といえるかもしれない。
結局、淳仁天皇は764年10月14日に、親王待遇で淡路国に流され、翌年10月監視が厳しくなった中で逃亡を図るが、つかまり病死したことになっているが、実際には暗殺されたのではないかともいわれている。葬礼が行われたことを示す記録がないことが、その証拠とされている。また、死亡後廃位されるなど、処分が厳しかったことも要因の一つになっている。
淳仁天皇陵の所在は明確ではない
ところで、淳仁天皇の淡路陵、南あわじ市賀集の陵墓が宮内庁によって定められている。同所は大きな、そのまま陵墓になっており、陵域面積は3万m²を超える大規模なものだ。ただ、これは他の天皇陵と同じで、宮内庁がそういっているだけで、確たる根拠はない。
事実、淡路島にはこの淳仁天皇淡路陵以外にも、伝承の淳仁陵が幾つかある。例えば公式の淡路陵のすぐ近くの、大炊神社がある志知中島にも天皇陵がある。ここには、葬礼の記録がないことを補完するように、毎年地元の人が、新しい寝具を作り、安らかに眠れるようにお祀りをしている。
このように1000年以上にわたって子々孫々が、淳仁天皇といわれる天皇塚を守っているのは、淳仁天皇と淡路島の三原(御原)平野が関係が深いということもありそうだ。淳仁天皇の兄弟には三原王を名乗る人物もいる。
さらに淡路島北部の伊弉諾神宮に近い、高島の森に、淳仁天皇陵に擬されている高島伝承地がある。
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