自分らしく生きる?
吾輩はゲイである。
が、自分の中では同性愛者であるということがあまり大きな要素ではない。
特に到達した哲学的な境地もないが、一応1つの考え方は持っている。
吾輩は「両親の息子」であり、「姉の弟」であり、「伯父伯母の甥」であり、「男」であり、「30代半ばのサラリーマン」であり・・・
吾輩を指し示す代名詞は膨大にある。
それらが混ざりあったのが吾輩なのだ。
1つ1つは特別なものは無い。
しかし混ざりあった存在は世界にとって2つとない固有性を持っているのだ。
故に吾輩は同性愛者であることをアイデンティティとして重きを置いていない。
吾輩は同性愛者ではあるが、同性愛者以外の側面の方が遥かに多いのだ。
吾輩は両親にも姉にも同性愛者であることを告げてはいない。
家族なのだからもしかしたら察しているのではないかと思う部分もあるが、わざわざ言う必要はないと思っている。
「家族に隠し事をしてて心苦しい、後ろめたい」と思い悩む人もいるのかもしれないが、吾輩は家族に言ってないことなんて山ほどある。
親が買ってくれないゲーム機をお小遣いを貯めて買ったこと、
母親の作るおかずでそんなにスキじゃないものがあること、
近所に苦手な同級生がいること、
読書感想文で何かの賞を貰ったこと・・・
大小様々だ。
吾輩にとって同性愛者であることを告白しないことはこれらのこととほぼ変わらない位置にある。
そんなわけでカミングアウトしなくてもそれなりに吾輩は吾輩らしく、親に隠れて悪さをしたり、時には親を傷付けない嘘を吐いたり、友達に意味のない嘘を吐いたり、報告しないことがあったりしながら生きてきた。
勿論、これは吾輩の同性愛との関係性であり、考え方である。
上記のような話が通らない環境にある諸氏がいることを忘れてはいけない。
ただ、大部分の同性愛者や性的マイノリティはその性的指向に対して自分なりに折り合いをつけて現代社会に溶け込むように生きているのもまた事実である。
この折り合いが異性愛者にはまるで無いとは思えない。
誰もがどうしようもない事情や気持ちを抱え、悩み、時には何かを諦めながら生きているのだと思う。
吾輩の意見:「自分らしく」という考えの中に性的指向の比重を重く捉えすぎていないだろうか?
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