「生きづらさ」に巣食う「若さ」という蠱毒 2023/12/13

 X(旧Twitter)でこんな投稿を見つけた。
「生きづらい…」
「私は精神疾患?発達障害?…いやただ怠惰なだけの健常者だよね…(泣)」
 
 COVID-19のパンデミックを乗り越えたかと思いきや、ウクライナ・ロシア間の紛争が始まり、ここ数日ではイスラム原理主義過激派によるイスラエルに対する越境テロが行われ、双方多数の死者を出しており、緊張感を緩めることのない世界情勢が続いている。
 一方の日本国内では少子高齢化をはじめとして、経済の不況や某男性アイドル事務所の大規模性犯罪など独自の問題を様々抱えており、様々な局面において苦境に立たされている。そんな中ある意味でパンデミックのように若い世代に広がりを見せているのが「生きづらさ」である。もちろんこの「生きづらさ」は今に始まった事ではないであろう。現在の若者だけでなく親世代やさらに上の世代の誰もが経験したことのある感覚かもしれない。しかしうつ病や摂食障害などといった精神疾患がいわゆる「現代病」としてまとめられている(このような精神疾患に加えて生活習慣病なども含め一括りにしようとするのはあまりにも煩雑な理解であると思うが)ように、精神的な不安定さは現代の日本においてより明らかに表面化した問題であり、「生きづらさ」を現代の若者にとって重大な問題として議論することは非常に有意義であると思う。現に「生きづらさ」というワードで検索してみるとここ数年の間に書かれた記事や論文が多くヒットするし、「生きづらさ」をテーマにした本も書店に多く並んでいる。このような「生きづらさ」に悩む若い世代はどのようにこれを解決していけば良いのだろうか。その原因は何なのだろうか。私は「生きづらさ」は現代に蔓延る「若さ」への執着に強く関連しているのではないかと考えた。これについて以下議論(自論を展開)していこう。(10/13)


と思ったのだが、この先を綴る事なくちょうど二ヶ月が経過してしまった。未だ、この「生きづらさ」と「若さ」に対する考えに大きな変化はないので、簡単に結論だけ述べてこの議論については、一度寝かしておくことにした。以下私が言いたいことである。


現代社会の進むスピードは異様に早く、その結果「若さ」が非常に重要失されているように感じる。そのため、1、2世代前であれば、精神的に未熟な存在として扱われていた若者が、自立した存在としてさまざまな選択に迫られている、ということである。
いわゆる「情報化」は、世界中の社会の有り様を大きく変化させた。文字通り情報の伝達は速さの点でも、伝達する情報の量という点でも大きく発展し、コミュニケーションの点においても、一瞬で世界中の人間と繋がることができる。この点から、社会が変化するスピードは異様である。この「情報化」の発展のスピードからも見てわかる。
このような社会においては、一分一秒が惜しい。そのため、あらゆる活動において、「いかに早い時期から始めるか」ということが重要視されることになる。新卒一括採用が主流であることや、大学一年生から、ひいては高校生の間から就職活動を始める人間が少なからず見られるということが良い例だろう。
このような社会全体における「若さ」への意識については、日本特有の、また異なる視点からも理解することができる。それは「少子高齢化」による人材不足であり、人材を必要とする企業などは、多くの優秀な人材を獲得するために、インターン等を通じて、早い段階から彼らを囲っておこうとするのである。国産の企業が採用時期を一律に揃えるなどの策を打とうとしても、経団連や外資系企業の影響で国家単位の対策は難しいそうである(時間の関係で正確に調べておらず、明確なソースはないので、ここについては全く信憑性を担保できない)
さらに、たびたび議論されていることであるが、SNSの普及によって人々が抱く「理想」はより高い水準になってしまう。Facebookのように、身内同士に留まりやすいSNSではなく、Twitter(X)やinstagramでは、優秀なエンジニアたちが作った巧妙なアルゴリズムを通じて、各ユーザーの興味合わせて、より注目度の高い不特定多数の投稿が表示される。ここでフィーチャーされる注目度の高いユーザーというのは、より「理想」に近い、あるいは「理想」を超えたユーザーであるということが言えるだろう。一方で、逆の方向、つまりネガティヴな意味で「理想」から大きく離れていることで、より注目を厚舞えるということも言える。もちろんそのほかにも様々な注目の集まり方が考えられるが、このように、一定の尺度において極端な例が目に入りやすいということである。これによって、ユーザーはこのような極端な例というのが「普通」であるという錯覚に陥ってしまう。やはり、SNSを巧みに利用しているのは若い世代であり、このような影響は、特に若者に大きいということは明らかである。
このような「注目」はSNSに限らず、多様な人間が存在するコミュニティ、あるいはメディアにおいて起こるものであるが、ここで「若さ」というのは非常に注目されやすい尺度である。日本人の美意識として、女性に対する美しさは「かわいい」に繋がることが多い。この「かわいい」と言いうのは、ある意味で幼さとも言うことができ、若さと美とは非常に密接な関係を持っており、日本人においては特にその傾向が強いように感じる。もちろんこれは男性においても同様であり、「若さ」、あるいは「若々しさ」と言うのは非常に重要な尺度である。ここではわかりやすくするために、性別というカテゴリーを用いて説明したが、つまり、日本の若者らの意識として、ルッキズムが強烈になっていて、そこで「若さ」ということが非常に重要な尺度となっているのである。この美意識を通じた「若さ」の喧伝は、あらゆる場面で見ることができる。例えば、電車内の広告を見れば、脱毛、脂肪吸引、整形などの宣伝文句が並んでいるはずである。
このように、日本社会においては「若さ」という尺度が非常に特権化されているわけである。さらに、今の若者はコロナウイルスのパンデミックを経て、他人と面と向かって接する機会を激減させた時期を経験しており、これは自分のロールモデルとなる上の世代との接触を大きく減らすことになる。不特定多数との関わりを持つことのできるSNSにおいても、どうしても同世代、あるいはそれに近い年代の人間との関わりが多くなり、そのような人たちは将来を考える上でのロールモデルにはなりづらい。
前に述べたようにこの「情報化」の進展によって、多くの人々は、あらゆる情報へのアクセスを確保した。つまり、人々は身近なロールモデルを減らした上で、様々な選択肢を目にすることになるわけである。現代ほどに情報化が進んでいなかった時代であれば、頭の片隅にすら存在しないであろう選択肢までが、視界に侵入してくるわけである。非常に極端な例を出せば、身分制や家父長制の残存する社会において、子供のロールモデルは親であり、長男に至っては、その家の身分、あるいは店を継ぐということを、半ば強制させられている一方で、身分制がなく、インターネットが普及した現代社会においては、大企業から中小企業といった就職先、医者や弁護士、公務員といった資格・専門職、さらにはアイドル、配信者、インフルエンサー、投資家など、多様で魅力的な選択肢が転がっている一方で、このようなインターネット上で見られるロールモデルはあくまでそのモデルの一部であり、実際に身近な人間から得られる情報に比べれば非常に浅い内容と言える。このような社会で、人々は学生のうちからこのような選択肢に迫られるわけである。もちろん、この例には身分制などといった、情報化社会と異なる社会制度も関わってきているものの、多様な情報のもとに様々なロールモデルの一端を簡単に見ることができ、それによって多くの選択の可能性の上に放り出される、という現状をイメージすることはできたのではないか。

このようにして、特権化された「若さ」のもとで、非常に広く浅い情報を通じた多様な選択肢に迫られる現代の若者に余裕などあるはずがない。加えて、ITなど、高度な技術が求められる職が増えてきたこと、精神医療が発達したことなどを理由にして、ADHDやASDなどの発達障害やうつ病、双極性障害などの精神疾患が顕在化するのも当然であろう。

このようにして、現代の若者が抱える「生きづらさ」という得体の知れないものは、現代社会において、「若さ」という非常に繊細な物差しが、異常な価値を持つことによって発生していると言うことができるのではないだろうか。
以上が私がこの記事において議論したかったことである。二ヶ月の隙間が空いたことで、かなり雑な議論を展開してしまうことになってしまった。また機会があればもう一度このテーマについて論じてみたいと思う。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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