佃煮を知っているということと 勉強ができるということと
それはムスコが小学一年生の時のこと。その日の学校公開日は、朝から放課後まで、親の都合のつく時間にいつでも授業参観ができました。私が訪れたのは、ちょうど前の国語の授業が終わった時刻。教室から出てくるおかあさん、おかあさんが、皆さん「○○くん、賢いわね~」「ホント、頭いいわ」「スゴイね」などと口を揃えて我が子を褒めてくれるのです。
「ん?賢い?何をしたの?」と聞いてみると、
「佃煮を知っていた」とのこと。教科書のお話の中に「佃煮」という単語が出てきたので先生が「知っている人?」と聞いたら、手を挙げて答えたというのです。「ウチの子、佃煮、知らないわ~」「うちも知らない」「スゴイよね」となったので、「イヤ、それは、ただ佃煮が好きだってことだけで、たまたま…」
「それだけじゃないのよ!」と話は続きます。
「先生が『いろいろな佃煮があるのですが、どんな佃煮を知っていますか?』と聞いたのを、またまた元気よく手を挙げて『昆布とあさりと、小さいエビと、キノコの佃煮と、牛肉と、コウナゴ』って答えたの。よくそんなにいっぱい出てくるわね、って感心したわ」「コウナゴって何か私も知らなかったよ。食べたことないもの」「そう、スゴイってなったよね。こどもたちはせいぜい昆布くらいしか知らないんじゃない?」
「コウナゴはおばあちゃんの住む町の名物だから、たまたま送られてくるだけで…」
「とりあえず、何か佃煮買わなくっちゃね、って話してたのよ~」「ホント、頭いい子は違うわ~」
「佃煮」を知っていただけで、ベタ褒めです。そのことだけで「頭がいい」と言ってもらえました。
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さて、これはほんの一単語「佃煮」だけのことですが、「知識で豊富にする」ということが「頭がいい」につながるであろうことは確かかもしれません。それは、教科書に載ってはいない学びであることが多いのです。「佃煮」は「食卓」で得た知識です。生活しているありとあらゆる場面に知らないことは溢れています。
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「佃煮」を知っていても、小学校お受験や、難関私立中学受験に役には立たないでしょう。それでも「賢い」と感じた親御さんたち。
「勉強」することの目的を「試験の点数」のためとは考えていません。
「勉強」とは、目先の受験の乗り越え方、100点の取り方に直結するものではないのです。
では、「勉強」とは何なのか。
…ズバリ「豊富な知識を得ること」です。
生まれたばかりの赤ちゃんは何も知りません。知識はゼロです。
親の役割は、そんな我が子を「知識」で満たしてあげること。
勉強する内容は、「国語」「算数」「理科」「社会」などと区分されることではありません。
何も知らないこどもにとっては、ありとあらゆることが「勉強」となっていきます。
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学校の勉強は学校で勉強してきてもらいましょう。
家庭では…学校でできないいろいろな経験を積み重ねていけたなら、と思うのです。