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思いがけない成り行き(後編)

 今年は、一月から二月にかけて、大変な大雪に見舞われた。ちょうど、そのピークのときに出版社の編集長に会うため、真紀は東京に出かけることになったのだった。
 編集者と会い、そして東京からの帰り道は天候が少し崩れだしていた。しかし真紀は往復バスの帰りの乗車券を解約しないで雪模様の中、そのままバスに乗り込んでしまった。すると行きの晴れ模様はどこへやら、帰り道の高速道は途中からひどい悪天候に見舞われた。前方が見えない程降り続ける雪の中を進むことになった。 

 車窓を覆うように横殴りに降り続ける雪、白いガードレールから下に見える川面と墨絵のような冬枯れの木々。見ると眼下に吸い込まれそうな怖さを感じる。少し休もうとしてみるが外の様子が気になって眠れる状況ではない。(運転手さん、どうか、気を付けて焦らないで落ち着いて運転してください)起きている間、夢中で祈り続けた。こんな経験はしたことがない。このままバスに乗っていて本当に大丈夫だろうかと不安が胸を占める。まさか、このまま転落事故とか。こんなことなら、節約しないでキャンセルしてJRで帰れば良かった。

 バスは途中大雪で先へ進めず、運転手さんたちは、水やら乾パンや非常食を乗客に配布し出した。バスは軌道変更して近くの松本駅にたどり着いた。だがJRも運休で、そのまま駅で待機となった。トイレもバスの中のトイレが一杯になるというので、バスから降りて駅のトイレを借りた。
 目的地まではまだ遠い。バスは燃料を入れるため、駅からまた離れてガソリンスタンドに立ち寄ろうとするが、ひどい渋滞ですぐ五十メートル先のガソリンスタンドまでがたどり着くことができない。そのまま動けず、ずっと同じ場所で深夜まで待機した。
 二月初旬のその日は、偶然にも真紀の四十七歳の誕生日で、中高年にもなると誕生日も特別うれしくないが、こんなかつてない環境でその日を迎えることになってしまった。不安な思いで落ち着かない。
 
 深夜十一時過ぎ、トイレに行きたくなって、バスから降りて近くのドラッグストアのトイレに行った。
 トイレに入ると、後からもう一人バスの乗客がやって来るのが見えた。トイレを出た所で、その乗客は前方にお好み焼き屋を発見して「あそこへ入りましょう。まだまだバスは出ないでしょう」と誘ってきたので、そこで何か食べ物を買うことにした。二人で店に入り、テイクアウトの焼きそばを注文してから、水を飲み、人心地着いた。焼きそばができあがるのを待つ間、しばらくおしゃべりをしたが、その人は牧師のようだった。週に一回、聖書から題材を取って、教会で説教をするらしい。
 「朝と晩はお祈りをします。人間は弱い者だから、朝、晩、神に祈って修行をします。食事のときも、どんなときでも神が光を与えてくれる、だから(私の)胃潰瘍も腰の痛みも癒される」と言う。

 それらの言葉がなんとなく今の不測の事態に符合していて、生きているとどんな思いがけない事に遭遇するか分からないものだな、と思った。一人だとバスの出発が心配だから、店にまで入らなかったと思うが、その人のお陰でこうやって温かい物を口にすることができた。
 結局、その場所でバスは二十四時間以上待機して、翌日、もう一度バスが松本駅に戻った。そこからはなんとか動き出した列車を乗り継いで地元高山に帰った。

 難渋した高速バスから松本でJRに乗り換えてやっと家にたどり着いたが、途中もしかしたら、無事に帰れないのではないかとさえ思った。
 真紀は帰宅すると旅費以外の宿泊代やミュージカルの代金を小銭は便せんに張り付けて封筒に入れて高槻に突っ返した。高槻のせいで東京まで出かけて、あげくこんなことになってなんのために東京まで行ったんだろうと思った。そもそも高速バスでとんでもない思いをしたのも、こんな寒い時期に呼び出されて、旅費は自分で出すのでけちったからだ。

 もう、これで仕事の話しも立ち消えだろう。しょうがない、こんなことも経験だろう。すると意外や、しばらくして高槻から電話があった。
「高槻ですけど、この間は悪かったね。申し訳なかった。どう、もう一度、仕事のこと、考えてくれない?」「ええ、どういうことですか。私にまた、仕事をくださるつもりなんですか。でも、私はこの間のようなことには応えられませんよ。それでもいいんですか」「いや、分かってる、分かってる。仕事はちゃんとあげるから」

 思いがけない展開にそれ以上、真紀は言い返すことができずに、電話を切った。高槻という人には問題があるように思えたが、わざわざ電話をかけてくるところをみると、自分と仕事をやる気はありそうに思えた。それと、高槻の出している雑誌は信頼できる気がした。上級講座ももう終えてしまったし、つながりのある人からの仕事を断ってしまった今、他にあてなどない。村上には申し訳なくてもう頼めない。養成講座でも再三言われたように、仕事は自分から取るもので講座で教わった講師や友人たちと講座の間につながり、直接仕事の交渉をするしかないのだ。講座の会社が責任を持って仕事の斡旋をしてくれるわけではない。
 村上に励まされた「今度、その原稿を見せて下さいよ」という言葉が心に残っている。
 

 それ以来、高槻からは三日にあけず電話がかかるようになった。
「僕は女房とは遠い親戚で小さい頃から顔だけは知っていたの。会社もおやじが残しておいてくれたお陰で仕事も好きなことをやっているし、人生で心残りは恋愛をしなかったことだな。恋愛はしてみたいね。仮初めでもいいから。だから、古川さんとこうして電話しているだけでもいいの」
「でも、編集長は仕事柄、いろんな人と出逢うでしょう。その方たちとそうしたらどうですか」
「そんなことしてたら仕事にならないよ」
「仕事もあげるからさ。こうして電話だけでもいいよ。――古川さんは旦那さんが亡くなったんじゃ忘れられないだろうね」
「いえ、そんなんじゃないんですけど、男の人ってよくわかんないな、と思って。奧さんにだってあんまり本心をあかさないでしょう。旦那は、元々よそでも人づきあいの良い方じゃなかったし」
「僕のことなんだけど、女房と結婚話が持ち上がって、気乗りはしなかったんだけど、ある日病気をしたときにね、看病してくれてね、ついそうなっちゃったんだよね、そしたら、こんどはお袋をさ味方につけてさ、二人で今度は協定結んでさ、住む家を見つけに行こうとか言って、強引に結婚させられちゃったの」
 
 週刊誌によく出ている結婚している男がよく使う手だ、奥さんとは冷めているようなことを言うけど、本当は奥さんとはとてもうまくいっていたりするパターンだ。それくらいわかるのに。
 仮初めの恋愛って、ではそれを真紀でそういう思いををちょっとは満たしたいということなのか。電話だけでもいいというのは。そうしたら、仕事も考えてあげるということか。
「でも、奥さんはいい人なんでしょ、奧さんとお母さんとはうまくいってるんでしょ」
「母親とはうまくいってる、仲良くやってるよ」義母と仲がいいなら、じゃあ、とてもいい奥さんだろうと思った。出版社の建物は父親が残した印刷会社を利用して使っているが、今時出版は儲からないので借金もあるらしい、奧さんは薬剤師で給料もいいらしい。

 仕事が他にないということだけでなく、物を書く身にとってこういう展開も男心を知り、新しい体験をするいい機会だと思い、心そそられる気がして、好奇心が湧いた。書くということは自分の経験が糧になるというということだから、そういう気持ちがいつもどこかにあるので、電話だけというなら、しばらく成り行きに任せてみてもいいと思った。多少危ういことでも未知のことに向けて駆け出したくなってしまうところも真紀にはあった。
 高槻からは彼の出版社から出している本をダンボールで送ってきた。いよいよ、仕事開始だ。

 高槻からもらった仕事は高山祭りの取材だった。真紀が書いた物は果たして四回くらい高槻に直された。また、高槻に言われてもう一度関係者に話を聞き直したり、なかなか難しかった。「このくらいのページの原稿なら、他のライターなら二回くらいでしあげてくるよ」高槻は人物の画像が小さすぎると言って怒った。わずか四ページくらいの記事を書くために、一日中あちこち走り回って取材してこれだけ苦労をするのだと思い知った。高槻は取材にかかった交通費だけは送ってくれた。元々、この仕事で収入は望めないし、何度も書き直した原稿で勉強させてもらって交通費をもらえたら、十分だと思った。

 しばらくして高槻から連絡があり「これからは夜、十時過ぎにまた連絡入れるから。僕は火、木、金曜、十時でないと空かないから。その頃また、連絡入れるから」と高槻は言った。とにかく忙しいらしい。あさってまでに原稿を書かなければならないと言っていた。その気分転換に真紀のところに電話してきたのだと言っていた。
「どうぞ、気分転換につかってください。私もうれしいです」
「なんだか、声が艶っぽくなってきたね。あなたは更年期はまだ始まってないの? もう、始まった? 生理は順調?」
「もう、始まってます。更年期。私は早くて以前の方がひどかったです。今は薬を飲んでいます。女の人はホルモンバランスが崩れると鬱になったり、いろんな身体の故障がおきますから」
「なんか、更年期らしいことある?」
「はい、いらいらまではしないけど怒りっぽくなったし、それとはっきりものを言うようになった。以前はレジ待ちの列で、割り込まれたりしてもじっと我慢してたけど、今はそういう小さなことでもはっきり言うようになった。以前はよく怒ってる中年のおばさんを見てよく怒るなあって感心してたけど、今はそういう気持ちがよく分かる」
「じゃあ、僕のときもそういう感じ?」
「そうかもしれない」
「古川さんはつきあってる人いないの?」
「いないですね」
「古川さんは寂しいとは思わないの?」
「ううん、思わない。若い頃も思わなかったし、今も思わない」
「へえ、珍しいね」
「寂しいとは思わないけど、心細いとは思う」
「僕たちよく似てるよね」
「何か困ったことがあったとき、困ったなあ、誰か相談できる人がいればいいなあ、とは思った。今も思う」
「何でも相談できる人? じゃあ、俺がなってあげるよ」でも、こんな忙しい人がそうなってくれることはないだろう。こんなに忙しくて自分の都合のいい時間に自分の都合で電話をかけてくる人が真紀のような人間の相談ごとに構うような気はしなかった。
「それにしても編集長の奥さんはきっと理解のある方なんですね。それだけ忙しい高槻さんを支えていらっしゃるということは」
「女房は、理解はしてるけど大体僕に関心がないんだよ。昔、子どもがほしくないと言って、子どもをあきらめさせたから、僕を恨んでいるんだと思うよ……。」
「そうなんですか」
「親父みたいに酒乱になってDVをして、挙句他の女に入れあげるのをみてると、自分もそうなりそうで子どもができるのが僕は怖かったんだ」思わず同情してしまうようなことを言う。
 しかし、そういうことを(子供を産まないことを)受け入れた奥さんはとても包容力がある優しい奥さんだと思う。関心がないなどというが、この人はたぶん、とても良い奥さんに恵まれたのだと思う。
「今度さ、本を出すので富山に人に会いに行くの。他に今度の取材の打ち合わせも兼ねて会いたいから、どっか店をとっておいて。ゆっくりできるところがいいね」
 駅近くのビジネスホテルで泊まるという。では、また店を探さねばならない。駅の近くで個室の店がいいだろう。真紀はネットで駅前のいろいろな店を探し、予約した。

 高槻と会う日、富山駅近くの地下の店で、席を取った。高槻は紺色のスーツを着て決めている。
 あいにく日曜日で市場が休みのため魚は新鮮ではない。鰤とひらめの刺身はつけたが、日曜に舟は出ないから古い魚を出すよりはと思って、しゃぶしゃぶを注文していたのだが、「富山に来てしゃぶしゃぶとはね」と高槻は不平そうに言った。
 高槻はビールを飲み真紀はジュースを頼んだ。
「編集長は東京に住んでいて寂しくはないですか?」
「全然」
「私は大学のとき東京に住んでいましたけど、本当に寂しかった。東京ってやっぱり人との触れ合いが薄いから。人との何気ない触れ合いって本当に大事なんだなと思った」生まれた所だからということもあるが、きっと、この人は強い人なんだと思う。
「古川さんはね、ご主人は自殺だったんじゃない?」
「いいえ、事故ですよ」どうしてわかったんだろう。真紀は高槻の鋭さに内心驚いた。やはり物を書く人間というのは、とても鋭い面があると思う。
「私は女としては口が固い方だと思う。私がライターやってること、誰にも言ってないですし。先生がメルトダウンのこと、話されたことも誰にも言ってないよ」
「先生はどうですか。口が固い方ですか」と夫のことも詮索されないように口止めしたつもりだった。

 今年の春、高槻との電話での会話を思いだした。まだ福島の原子炉のことで騒がれていないときだった。
「福島の原子炉だけど、テレビも何も言わないけど、危ないね。核燃料は重いから、高熱で溶けたら下に落ちるはずだけど、そうなると下にたまっていくはずだよ。核納機は大丈夫だなんて言ってるけど、きっとそうじゃないと思うよ」
「ええ、そうなんですか。でも、テレビでも新聞でも何も言ってませんよ」「きっと、分かっているけど、何も言わないんだろうね。人に言っちゃ駄目だよ」
「分かりました。誰にも言いません」
 高槻は真紀の言ってる意味を察していないのか、いないのか
「この富山県なんかは朝鮮から来る人、来やすいところじゃない? 内海で人が来やすいよね。昔はここは航海が盛んで、首都にもなったんじゃないかと思う。それと五箇山も浄土真宗が盛んなのはなぜだろう」
「今度本を出されるためにこっちにこられたんですね」
「うん、ノンフィクションで取材したい人がいるの」
「そうなんですか」
「それとね、雑誌の取材のことなんだけど、今度富山にできた文学館があってね、僕が先日行って館長と話をつけてきたから、そこを君が取材してほしいんだ」高槻からはそこパンフレットを渡された。今度は富山に取材か。高山からだと普通列車で往復三千円くらいだ。それに富山からの電車代と。何度もやり直さないで済むようにうまくやらないと。

 見ると酔いがまわったような赤い顔をして「もう出る、お勘定して」と立ち上がった。高槻から「もう、お腹は大丈夫、ふくれた?」などの言葉もなかったので、真紀は寂しい思いをしながら外へ出た。鍋もそれほどつつかなかったし、刺身も遠慮してつつかなかったから。
「あなたは僕と十二、違うのか」
「はい、十二です」真紀は高槻に「もう、お腹は大丈夫ですか、食事満足できましたか?」と聞いた。「まあまあ」高槻は答えた。
 別れ際に握手を求めてきた。真紀も「運がいい人のパワーをもらわなくちゃ」握手をするとがっしりとした男の手だった。

 文学館の件は無事に取材を終えて原稿を作って送ったが、高槻からはかなり手直を入れてきた。あんな何でもない玄関の様子なのに、これだけ描写して書き込んでいるのがすごいな、と思った。高槻の文章だとそれほど広くないシンプルな玄関も魔法にかかったように広く、見どころが多く見える。「もっとよく観察して丁寧に描写して。もう一度、取材やり直した方がいいんじゃないの」と言われた。
 真紀は館長にお願いしてもう一度中の様子を丹念に取材をさせてもらった。そうして書き直し、それでももう一度手直しが入った。人になんとか読んでもらえるような文章にするというのは難しいものだと思った。読み応えのある文章にするとなれば相当修業が要るのだろう。館長の写真は大きく撮り、見開きで6ページくらいのなかなかの長文になった。
 
 その年も押し迫り、十二月、イブの日、高槻から連絡があるかな、と思っていたらやはり連絡があった。永平寺の取材に行って来たと言う。「自分なんかは煩悩ばかりでとっても女犯の罪を犯さないではいられないから、とてもお坊さんにはなれないけど」と言う。
「今まで誰かからプレゼントをもらったりしたことはなかったの?」
「うーん、ないですね」
「デートしたりとか」
「あまりないですね」
「イブなのにどうして?」
「二十四日というと家のことで忙しいし、ここ数年は母のことでいろいろあるかもしれないので」独身時代も奥手で男性とは深い付き合いができなかった自分だった。
「かわいそうに。うーん、僕がプレゼントあげたくなっちゃった。プレゼント、何か送るよ」
「うーん、物をもらうと負担だから、言葉の方がいい。その方がうれしいから」
「僕、古川さんと話しているうちに古川さんのこと好きになっちゃった」
「私のことを? 電話しているうちに?」
「何度か会ったけどその時だけじゃわからないじゃない」
「あんまり会ってないですもんね」
「また、手をつなぎたくなっちゃったなあ。僕は次にできる人のつなぎにしていいよ」
「はははっ」
「ところでさ、古川さんはオナニーってしてるの?」
「ええーっ、なんですか、いきなり」
「いや、男性はした方がいいんだよ。前立腺癌なんかにかからないためにした方がいいんだよ」
「へえー、なんか、リンパの流れの関係のためですかね」
と思えば親鸞の話に移り、
「親鸞て人は仏教の世界に異性を持ち込んだ異端児だけど、やはりそれだけ魅力があったのかなあ」
「私は五木寛之さんが書いている『親鸞』しか読んでないけど、思春期の親鸞の心の迷いや葛藤が読んでてわかりやすかったですよ」
「ところで来年の初詣はどこかに行くの?」
「いいえ、初詣ではないんですけど、近くの神社はよく行きます。夫の故郷に住んでいたとき、白山比咩神社はよく行きました。あそこは格の高い神社だそうで」
「ああ、そうなの。あそこは女の神様でなんか結びの神様だそうだね」
「さすが、よくご存じですね。なんか人と人の縁を結ぶみたいですよ」
「僕と縁があったのもその霊験のせいかもしれないね。――古川さんの故郷なんかはきれいな所なんだろ。景色も良くて水もきれいで」
「ええ、生活用水なんかも地下を流れる水でまかなっているんです。洗濯や野菜を洗ったりするのも近くの水屋と呼ばれる共同の湧き水があるんです」「へえ、いいねえ。そういう所で静かに暮らしていくのもいいだろうなあ」

 一日はさんでまた、高槻から連絡があった。さすがにうんざりした。
「毎日かけるのは……」
「いいじゃん、いいじゃん」
といつもの調子で話しかけてきた。
 
 朝、起きて台所へ行くと蛇口の水が細く出ていた。母が夜中に水でも飲んだのか、いつから出ているのかと思った。
 茶の間にスリッパの片方が落ちている。これも夜中に母が何か茶菓子でも探しに来たのだろう。母に言うと「ええ、そうやった?」と覚えていないようだった。
 
 二日はさんでまた、高槻から携帯に連絡があったようなのでこちらから連絡しなおす。
「昨日、連絡があったようなんですけど、何か?」
「何かなければ電話しちゃいけない?」
「その前の日も連絡があったみたいですけど、私も母が動けないし、三度三度の食事もつくらなくちゃいけないですし、私も自分の生活がありますし、高槻さんが自分の生活が大切なように私も自分の生活が大切なんです」
「少しの間ならいいかと思って」
「だって、かからないときはずうっとかかってこないのに、今日みたいに夜遅く毎日のように電話がかかってくるし」
「忙しい時期は終わったし、だんだんこうなってきちゃったの。あんまり冷たくしないでね」
 途中、真紀が義歯が多いので歯磨きに二十分以上もかかって、夜寝る前は大変なことを話したら、「待たされる男は大変だね」
「いえ、私の年だったら相手も若くないですし、相手だって体の病気の一つくらいあるかもしれないし、そんなの平気じゃないですか」
「まだ男はいないようだね。絶頂って知ってる? 男性だったら射精したときがそうだからすごくわかりやすいんだけど。最初は痛くても段々慣れてくるうちに良くなってくるんだ。あんまりそういう経験はないみたいだね、あなたにそういうことを教えてあげたい」話の最後に、
「もっとエッチな話したかったけど、そろそろ、明日があるから。でも、僕が連絡しなくなると寂しいでしょう」と言う。そんな心配は全然ないのだ、毎回、十時過ぎにかかってきて、それもいつかかるか分からない電話に出るというのは、まるで時間を拘束されているようだ。電話がなければ本当に楽になるのだ。
「まあ、慣れたから」と真紀が答えると高槻は苦笑した。  

 数日して、また高槻から連絡があった。年の瀬なのに大体、このところ、二日おきくらいには電話がある。気が付くと着信が入っていた。しかし、風呂から上がったばかりなので風呂上がりは湯冷めがするからそのままにしておいた。十時からの電話だとそれが終わってから風呂に入ろうとすると母が気になって寝れないというので今日は早めに風呂に入ったのだ。

 次の日、また高槻から連絡があり、出ると明らかに不機嫌な様子で「昨日、着信入れたんだけど出なかったじゃない。夜は別にやることもないでしょう。僕が身体の空くのは十時じゃなきゃ無理だから。ちゃんと返信して。できればすぐ出てくれればいいね」と言う。それは夜の十時ころから一時間にも渉って毎日いつかかってくるか分からない電話に真紀はいつでも待機して応対するということだ。しかしなんとか機嫌を取り結んで
「高槻さんはこういう仕事の割に憎めないお人良しでしょう」と真紀が言うとその質問に高槻は答えないで
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく、そんな感じがする」
「自分のことはどう思う?」
「私は自分のことはかわいいけど、半分好きで半分嫌いですね」
「僕は自分のことは好きだよ。でも、古川さんのことにますます関心が出てきたね」沖縄に行って来るという。戦後、アメリカの影響下にある沖縄について地道に取材しているのだ。
「戦争は人類のまちがいだというけど、僕はそういうとこに興味があるの」「人間悪ね」
「悪でも、普通の小説にあるような悪じゃないね」
 たぶん、真紀がなんとなく高槻に言った「お人良し」も高槻のそういうところに感じるのかもしれない。小説にあるような性質の日常悪は、ささやかだけど現実的で狡猾だ。
「だけど人生、恋愛やセックスもしなくちゃ」
「それも人生の悦びの一つでしょうけど、私は文章を書きたいから」
「小説家になりたいの?」
「うーん、というか、小説家というより小説や文章を書きたいというか。日常の中で表現しきれない思いがある人間は、文章を書き続けるんじゃないかな。――編集長はこの仕事が根っからお好きなんですね」
「うん、まあ、睡眠が四時間でもこの仕事をやっているから僕は平気だね。他のことは考えたことがないね。でもこうして雑誌を出したり、自分の本を出したりしても空しくなるときがあるよ。こんなことをして一体どれだけの人が見てくれるのか。何が残るのか、何のためなのか、空しくなるときがある」

 でも、そうやって自分の分野でずっと生きていけるだけあなたは恵まれ、報われている。そうしたくてもできない人たちが世の中にはたくさんいるのだから。ひたむきに生きている人はたくさんいる。何も残せなくても。人が見てくれなくても。

 自分にはよくある不倫などとてもできないと思う。高槻とこうして電話をするだけでもやはり気がとがめる。気が重くなってきた。高槻のことは男性として好意など全然持ってはいないが、もし、自分が惚れた男でも相手の奧さんから奪ってしまうとしたら、やはり相手の奧さんの顔や家族のことが思い浮かんでしまうだろう、相手の奧さんから刺されてもいい、相手の家族の運命が変わってもいい、くらいの覚悟をしなければとても不倫などできないだろう。のめり込む前に自分ならブレーキをかけてしまうだろう。

 春になり、桜が満開の時期、母はしきりと外へ出て桜を見たがった。今年は特に花が多いと聞く。たぶん、鳥が花の芽をつつかなかったのだろう。車に乗せて窓から桜を見せてやった。学校の近くに桜の樹が連なっているので、遠目から見せてやった。心なしか、今年の桜は色も濃い気がする。「見れて良かった」とはしゃぐ母を見てあとどれくらい、桜の花を見せてやれるだろう、とりあえず今年は見せてやれて良かったと思った。    
 帰り、母がうどんが食べたいというので近くのうどん屋に入った。が、真紀が空いている席に着こうとしているのに、母は止める間もなく杖をつきながらわざわざ顔を寄せ合っているカップルが座っているところへ行って隣へ座った。なんて、気がきかないんだろう。
 更に帰り、あろうことか、母は自分の巾着袋と間違えて隣の女性の手提げ袋を持ち帰ろうとした。だから家を出るとき、巾着袋は持って来なくてもよい、勘定は私がするから、と言ったのに、どうしても持ってこようとしてきかなかったのだ。真紀はすぐにさっき母の隣の席に座っていた女性の所へ行き、手提げ袋を返して謝った。
 
 そろそろ次の取材先を探したい。しかし、前回持って行った件は高槻に「うん」といわれなかったし…。何か取材のツテを捜さねばならないと思う。やってみてわかったのだが、高槻の仕事は取材先と交渉済みだったのは富山の文学館の取材だけで、あとは真紀が取材先を自分で捜して取材交渉しなければならなかった。そういうやり方をしている所もあるだろうが、しかし、それだと取材先がなかなか見つけにくいだけでなく、せっかく見つけて交渉しても高槻にノーといわれれば相手に断らなければならなくなる。せっかく相手をその気にさせてある程度話を聞いてから、ノーというのは地元だから尚更、気が重かった。
 今になって村上が勧めてくれた講師の話を断ったのは惜しかったと思った。その仕事であれば多少忙しくてもたぶん、取材先は交渉済みなはずで、決まっている所を取材だけをしていればよかっただろう。高槻の仕事は母のこともあってこれまで二回しか仕事ができていない。
 
 高槻からの連絡があり、今度、取材があるので青森、仙台、山形あたりを巡るので一緒に行かないかと言う。つまり、一緒の宿に泊まろうということだ。真紀はやんわり断ったが、二回程誘ってきた。
 一度、次の朝に不燃物のゴミ当番が入っていたので早く起きなければいけなかったので前夜、十時より一時間早めに仕事のことで連絡した。高槻は不機嫌を露わにして「僕はその時間は受けられないって前に言ったと思うけど、あなたの都合で勝手に電話されても困るの」と声を荒げた。確かに十時前に電話したのは悪かったが真紀の方から連絡するのは希で、しかも今回、仕事の用件だったからだ。夜十時より早い時間にかけたのもはじめてのことだった。一方、高槻から真紀に頻繁にかかってくる電話は別に仕事がらみではない。
 

 次の取材の打ち合わせのために東京へ出ていかなければいけなくなった。あいにく母が転んでしまい、骨折の心配があるので医者に連れて行かなければ行かなくなった。東京へは日帰りで行くことにして、高槻にも理由を言って時間を合わせてもらった。
 すると、待ち合わせて会ったときから高槻は終始無言で明らかにいつもとは違う雰囲気を漂わせていた。食事をしても、不快そうな表情をくずさず、真紀と視線を合わせようとしなかった。気持ちが離れてしまったときの男の冷たさを感じた。
 
 その勘はあたっていて、案の定、それ以後打ち合わせをしようとしてもなかなか高槻が電話に出なくなった。やっと出たら高槻は「あのね、僕はね、君の原稿をいつも手直ししてられないし、まさかそのために僕が取材をしなおすわけにもいかないじゃない? それじゃなんのためにあなたに頼んでいるかもわからなくなるからね。僕はそんな暇じゃないのでね」

 じゃあ、せっかく完成した今度の企画はどうしたらいいのか、東京で会った時にはまだ企画を送るように言っていたのだが。その後、メールで企画を添付してみたがなんの連絡もなく、十日ほどしてからメールで返信があった。

 (取材依頼書の件、ぜんぜん書き方がなっていないのですが、今回それを直すのは諦めます。取材依頼書でこの出来では、本番の取材はもっとできないでしょう。書き直しを何回もやってもらってその度に僕がイライラするのは困ります。最悪、僕が行って取材し直すのことになったら、何をやっているのかわかりません。ですから、今回の取材は中止してください。
あと、申し訳ないのですが、あなたと今後お付き合いを遠慮させていただきます。あなたはこちらの事情を考えずに自分のことだけを押し付ける傾向があるのでちょっとついていけません。月末は編集で忙殺されるということは前から言ってあるはずです。
それでも人の事情は考えずに電話をかけてくるのでは困るのです。僕は電話はいつも十時ころにしてほしいと言っているはずです。
そちらの都合だけで先日も駅まで出て行かなければならない。出て行ったら、リュックなどかついで一緒に歩くのも恥ずかしくなるような田舎者まるだしのかっこうです。
僕も時間を無駄にしたくないので今後お付き合いはもうしないということで、よろしくお願いします。
申し訳ありません)

 今度仕事がらみで東京に行ったときは、母の怪我のことがあったので始めて時間を合わせてもらって東京駅まで来てもらった。東京への旅費も自分で出している。
 一年半の間、一日おき二日おきくらいにかかってきた高槻からの電話には本当に振り回された。電話がかからなくなってからは、すっかり楽な気持ちになった。
 高槻は、たまたま手近に現れた真紀と仕事と絡めてつき合ってみたかっただけなのだろう、いろんなものが満たされている不満のない男の残った望みというか、きまぐれなのだろう、今の真紀の力では二回くらいで原稿をまとめるようなことはできない、経験の少ない駆け出しのライターを育てるような懐の深さなどは元々なかったのだろう、と思った。
 夫を亡くした一人の女性への配慮があるなら最初のホテルのような出来事はきっとなかったに違いない。この先にはこれからどんな人との出会いがあるのか、とりあえず高槻との出会いはこれで終わったと思った。
                     了 

                    


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