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預かりもの

「貸与世界」

貸与:預かりもの
共同所有ではない。誰もが所有しない世界。物だけでなく人も命も、お預かりした大切なものであるとする世界。貸与、つまり預かりものとする世界。また言い換えれば、好むと好まざるとにかかわらず、今という時に一時的に天与の、与えられたものであり、それを自分の勝手にしていいものではないとする世界。自分のものではないもの、預かりものをどう扱うのが道理であるか?借りたものは、借りた時点よりも良きものとしてお返しする事を良しとする文化。つまり誇りである。

人と物だけによって成り立つ唯物論的世界観には所有はあっても本来的な貸与はない。人はその人の、物は誰かの所有物であり、貸与はその所有者からの貸与である。
だがここでいう貸与は唯物論的世界観の貸与ではない。なにものか(それをどう呼称するかは別として)から人に貸与された世界。人も物も、この世界そのものがなにものかによって貸与された世界。

なにものかによる人を含め万物の貸与、そしてその預かりものを良きように運営していく指導者。支配者ではなく。ここには所有、支配-被支配は存在しない。所有がある限り、その所有物、被所有者への支配が正当化される。あるいは所有が絶対化され粛清という殺人が正当化される。だが貸与には返済の義務が、つまり重しがある。貸与されたものは指導者である管理者の一存で自由には出来ないのである。管理者が人である限り最長でもその者の死によって預かりものはお返しすることとなる。後継者も正しくお預かりせぬ限り、貸与されたものは返上せねばならぬ。それが戦いによるものか禅定によるものか、はたまた選挙によるものかは別として決して私物化できないのである。貸与の意義がそこにある。民主主義は一見、この貸与に似ていると思われるかもしれないが完全に重なるものではない。より良きものとしてお返しする義務が発生する文化においては虐殺、粛清は存在しないはずのものである。より良きものとしてお返しする義務は自然発生ではない。なにものかからお預かりしたものであるからこそ、より良きものとしてお返しする義務が発生する。民主主義にはこの義務が発生しないのである。では貸与する主体は。それは文化によって異なるだろう。それを天というか神というか、その呼び名は多様であって良い。重要なのは、なにものかから貸し与えられた命(霊)や自然、万物を生命がその一生において良く使い、楽しんで、さらに良きものとしてお返しすることにある。もちろん、それらを(意図してか意図せずかは置いておくとしても)傷つけ、台無しにする場合とてあるであろう。だが一生を賭して預かったものを尊重し、いずれお返しするとする意識、また文化を背景とする無意識において丁寧に扱い死する時にそれをお返しする。ここにおいて精神はそのなにものかと一体となり生き、そして死んでいくのである。だがそれは単なる死ではない。そのなにものかを介して連綿とつながる世界そのものとして次の世代に受け継がれていくのであろう。

なぜ人には神が必要なのか。神、天、世界呼び名は色々あるだろう。だが人とは違う次元から人の手に貸与された世界、人、物、命、霊という世界観(宗教ではなく)こそが古来より現在、そして未来に必要な世界観でなくして何であろう。その主体としてのフィクションとして神がある。人は貸与される世界、人、物を作り出すことは出来ない。無から有を生むことは出来ないのである。その世界を生み出す力を神といい、その貸与世界を構成する主体を便宜的に神というのであった。この意味において呼称は神でも何でも良いのである。その目的は人の幸福であり、安心して暮らしていける、生きていける世界を形作り、維持継続していくこと。ではないか?権威-指導者-民(おおみたから)構造である。この世界観においては支配は存在しない。共存があるのみである。

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