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32梵天勧請

説法は悟りに

縛られている

 

お釈迦さまに

梵天勧請がなければ

説法を不要とできたか

 

解説要約)

お釈迦さまは悟りの後

もし梵天勧請がなければ

説法をされなかったであろうか

 

解説)

お釈迦さまに

梵天勧請がなければ

説法を不要とできたか

説法:他者へ悟りの境地を教として説くこと

 

悟りの後

独覚であるお釈迦さまが

悟りの境地を教として説くことを

「人々には理解できないと考え、説法することを躊躇」

した折りに

「世界が廃壊する」

として説法を勧請した

とするのが梵天勧請の逸話である

 

悟りの後

説法せず

とする選択はお釈迦さまに

可能だったろうか

自利、利他の立場からすれば

選択自由の問題であり

説法せずという自利の立場はある

説法不可避という利他の立場もある

つまり

選択自由となる

 

しかし

悟りがある以上

“否“

となる

お釈迦さまに説法の

選択自由はなかった

のである

 

詰まるところ

説法不可避

となる

 

お釈迦さまにとって

悟りがある以上

梵天勧請の有無によらず

説法は不可避である

もちろん先の利他故もあろう

だがより本質的には

自他同一とする悟りの視座からは

自利も利他も

つまるところ同一であり

必然的に説法は開始される

つまりこの世を敗壊させぬ

という選択となる

説法は悟りに縛られている

 

悟りの内実を

言葉で表すことは困難である

だが多くの言葉を重ね

その概要は語られてきた

 

「汝はそれである」(ウパニシャッド)

以降も

「一即多多即一」(華厳経)

「同一性故入阿字」(日本真言宗)

等々

悟りを指し示す

言葉や図絵、公案は

あまたある

その一つの表現が

「自他不二」

である

自利の立場から説法せず

となっても

利他の立場からは説法不可避

である

つまるところ「自他不二」

とする悟りからすれば

説法は

選択自由の内にない

 

お釈迦さまは

梵天勧請の有無によらず

五比丘(お釈迦さまの説法を理解し悟りに至れる可能性のある者)

の有無によらず

たとえ一人として

お釈迦さまの

説法を理解できる者が

いなくとも

説法不可避

であった

 

つまり

説法は悟りに

縛られている

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