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25芸術

人の存在価値は

芸術と似ている

 

解説要約)

人の為(な)した仕事が

有用かどうかは

人の存在価値とは無関係である

芸術や文化は

在ること

意味があり

価値がある

そこに客観的尺度は存在しない

芸術の意味や価値は

一人(いちにん)として理解され

観ぜられる

ものとしてある

 

解説)

芸術の価値を

観ずることのできる人は

人の有用価値としてではない

存在価値

理解することが

できる

 

芸術や文化は

そして人の生(せい)は

有用かどうかという

価値観念から

独立している

 

芸術や文化は

在(あ)ることに

意味があり

価値がある

 

真の芸術は

己自らと“なにものか“によって

成立する統合である

 

人間、ある域(いき)を超えると

己ひとりの力のみではなく

“なにものか”が力を貸して

さらにその“なにものか”の伝えたい事を

なす道具が己なのだという心境に達する

くだいて言えば

「降りてくる」と

いう事がおこる

 

そして

人もまた同様

人の存在価値は

人間社会にとって

有用かどうかとは

無関係であり

在ることに価値があり

そこにこそ価値を見出す

ことができる

 

人は己独りだけでは

なにもできぬ赤子(あかご)として

生まれ

己自身では如何ともしがたい

死体(したい)となって

この世を去る

 

だれも自(みずか)らの

亡骸(なきがら)を

自ら始末する事が

出来ぬままに

生まれ

そして死んでいく

 

死体は

死体、自らではなく

生き残った何ものかが

始末していくしかない

赤子とても同様

 

真の芸術が

己だけの作品ではないように

人の生死もまた

己だけのものではない

人の命(いのち)は貸与されたもの

としてある

人の命は自ら作り出したものではない

貸与、与えられたものであり

預かりものとしてある

つまりそこには

所有もないし

自ら生きる

また死ぬ権利として

生(せい)がある訳でもない

その貸与された生(せい)を

一個の芸術として生き

一個の芸術価値を

観ずるように生きる

そしてやがて死(し)して

預かった生(せい)を

返却することとなる

 

だが

人は時に自ら死を選ぶこともある

死を選ぶこともできぬ苦しみから

逃れることのできる

唯一の道として

それも一つの人生であろう

もちろん

この選択は権利ではない

出来得ることなら

寿命を全(まっと)うすることこそ

望ましい

 

人は生老病死のうちにおいて

生まれ

赤子の間は

人の手を借りて

成長し

長じてからは病(やまい)に苦しみ

やがて人の手を借りて

生きながらえ

やがて死に向かい

死して後は死体として

人の手を煩わす

 

互いに人の手を借りて

生きていくこと必至でありながら

それに気づかぬ者も多い

いわゆる健常者として生まれても

人の手をかりて生き

障害や老いによって

人の手を煩わせ

生きていく

人の手を借りねば

生活できぬ老人にとって

かつての社会的有用性は

意味を失い

一個の人間としての存在価値に

還っていく

 

この時

社会的有用性にしか

価値を見出せぬ者は

己の存在価値に気づかない

 

お釈迦さまは

お生まれになって

「天上天下唯我独尊」と

おっしゃたと伝えられている

生まれてすぐのお釈迦さまという

赤子に社会的有用性を

求めるなら

先の言葉は空虚以外のなにものでもない

先の言葉は人の有用性にではなく

存在価値の尊さをこそ

伝えている

すなわち

「自分はありのままで

 尊ばれる価値がある」

のだ

 

なにゆえに生まれてすぐの赤子に

尊ばれるだけの価値があるのか

生(せい)をあるがままに

生きており

生かされている現実こそが

価値なのだ

そしてそれこそが悟りに

通ずる

芸術価値と同様に

 

生を芸術と同等に生きる人は

生そのものが芸術であり

“美”的価値となる

障害や老いそのものは

表面的には美的とは

言えぬことがしばしば

だが

その生の本質において

”美“以外のどういう言葉が

適切であろう

 

真理と言う月ははいつでも

そこにあり

言葉という月を指(さ)し示す

指(ゆび)はいつも

まどろっこしいばかり

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