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ルールよりも大切なモラルの話

ここ数ヶ月、スポーツにまつわる残念なニュースが何度も報じられている。相撲では力士同士のいざこざから日馬富士が引退することとなり、レスリングでは最も知名度の高いコーチが締め出され、今日は日大のアメフト部員が悪質なタックルをして相手QBを壊す事を指示されていた事実が明らかになった。

身体をぶつけ合う、激しい格闘技系のスポーツにおいては、選手の相手に対する恐怖心や様々なプレッシャーを振り払うために、監督やコーチが選手を鼓舞する場面はテレビの画面を通してよく目にする。観客だって、ルールの範囲内での激しいぶつかり合いは、大いに期待している。勝負の舞台が華やかになればなるほど、プレッシャーが大きくなることはスポーツを続けて来た人間としてはよく理解出来るが、これだけ「パワハラ」「セクハラ」が多発する状況は明らかに異常だ。

本来、コーチングを行う立場の人間は、対戦相手を越えなければならない壁や敵と見立てる前に、選手たちに「自分の弱さには負けるな」という事を教えるべきではないだろうか。自分の弱さ(孤独や不安)と向き合わず、ルールになっていない不文律≒モラルの壁を超えてしまった事がこれらの事件の共通点だと僕は考える。

「正」とは「善」とは何か、哲学はこれらの単純そうで難解な語の本質的な意味を考える学問である。閉じた世界や組織では「正」とか「善」の意味のはき違えが簡単に起こり得る事を覚えておくと良いだろう。

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今度はこの「モラル違反」が企業において発生する事例を考えてみよう。閉じた組織や企業の中では古い慣習が時を経てもそのまま残っている事が結構よくある。社長や役員が白と言ったら黒いカラスを見ても白と言え、みたいな明らかにねじ曲がった価値観の強要や、目的がよく分からない業務を突然押し付けられるような組織は、間違いなくブラック企業である。

上で述べた、スポーツ界の組織と会社のような組織とを比較してみると、どちらも「グローバル化」できていない点、「ダイバーシティ」でない点が似ていることに気がつく。判断をする指導者がある年齢層や属性に偏る、若しくは一人の人間が判断を下す場合、「独断」「独裁」状態となり、誤った判断をしてしまうリスクが高くなる。

これがスタートアップ企業や歴史の浅い企業で、創業者がその企業に愛情を込め、後進の指導を行なっている場合、「正しい独裁」つまりスピーディに判断を下す事が可能となり、ある意味望ましい状態となる。これは宗教でも同じで、キリストもモハメッドもブッタも「開祖」は概ね正しいものであったらしい。 (新興宗教は当てはまらない。)

宗教にしても、企業にしても、スポーツ組織にしても時が経ち、人が代わり本来の目的を忘れてしまうと迷走が始まり一気に凋落してしまう危険がある。熱くなるのも結構だが、時には原点に戻って何のために自分がその集団に属しているのかを見直す必要があるのではないだろうか。

今日は最後にそこそこ歴史がある僕らの会社の、偉大な創業者の言葉を記しておこう。

「最もよく人を幸福にする人が最もよく幸福となる。」

最後まで読んでくれてありがとう。

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鰯 十三
2019年はフリーターとしてスタートしました。 サポートしていただけたら、急いで起業します。