其の壱 こじれたエンジニアができるまで
僕は約11年前、2度の転職を経て今の会社に入社した会社員だ。ウチの会社はそれなりに有名で創業から数十年の歴史がある企業であるものの、僕が入社直後に配属された通信機器事業部の企画開発課は、それまで勤めた企業の職場とは一風変わった雰囲気の処であった。開発系の部門なのにパーテーションがない、機器の評価を行うための設備が極めて脆弱、機器のコア技術を知るのも派遣社員、営業部がすぐ側に居て毎日のようにクレームをつけて来る、などなど。評価業務は派遣社員に任せっぱなしで、社員は開発プロジェクトのスケジュールを引いたり、評価の進捗確認やコスト管理をしたりで、実務はほとんど行わない。入社前に上司から聞いていた通り、開発も生産も海外企業に委託している収益重視型というのは理解していたが、何だかあまり良いやり方ではないなぁと感じていた。前職で組み込み系のソフト・ハード開発を担当していた僕はこの部署でファームウェアのデバッグを担当する約束で入社したのだが、デバッグ用のパソコンの選定をしてもなかなか購入させてもらえず、年齢が一つ上の先輩からはいきなり既存製品の要求仕様書を作れ、などと無理難題を押し付けられていた。それについてはきっぱりと拒否して派遣社員の方々と評価業務を行うことから僕のこの会社で経歴は幕を開けたのだった。
入社からわずか半年後、所属していた部署は解散することになり、社歴の浅い僕は隣のグループで別の機器の開発管理業務をすることとなった。開発機器のハードウェア仕様を充分理解しないまま様々な機能をファームウェアで実現しようとし続けたことが原因で客先要望に応じられないような事態になってしまい、最後は客先から訴訟されるまで状況が悪化してしまったからだ。開発部長は別の事業部に引き抜かれ、課長は事業のクロージング、平たく言えば敗戦処理をその後2年くらい行なっていた。妻と当時の話をすると、その頃の僕は最も職場に失望していて、やる気を喪失しているように見えたそうである。会社選びに失敗したのだ、やむを得まい。
翌年の4月から僕は今までに経験したことのないパワーエレクトロニクス系の機器の開発部署での業務を行い始めた。正直に言って全く興味のないジャンルの機器ではあったのだが、守るべき家庭があり頻繁に転職を繰り返すのも自分のキャリアとしては好ましくない。共働きの妻にまた迷惑をかけたくはなかったので、自分にも部下にもとても厳しい先輩社員Aさんの元で腰を据えて暫く勉強しようと決意したと記憶している。彼は役職は持たないものの、評価設備の設計から機器の設計確認、打ち合わせの運営から開発プロジェクトの運営、予算の管理や開発計画の立案まで行うかなりやり手の先輩であり、部署を支えるスーパーマンのような方であった。自分にも部下にも厳しい彼の元で、開発・生産委託先の中華系企業との交渉のために英語を学んだり、回路図が読めるよう社外の研修に行ったり、ゆっくりではあったが僕はそれなりに努力をして新しい部署に馴染めるようにした。同い年の中途入社社員が僕の他に2人いたことも僕に安心感をもたらす要素の1つだったのであろう。
部署の人間関係において一番の問題は営業出身なのに企画開発課長のポジションにいる上司だった。経済学部出身の彼は所謂一匹狼タイプで当然ながら開発行為に関しては殆ど理解のない人間である。本人もその点は理解しているので、開発が本格化すると我々に進捗管理は任せ次の開発プロジェクトの企画をしたり、業界紙や展示会を見てマーケティングのようなことをしたり、営業に同行して市場調査したりして企画を練ることを仕事としていた。当時はまだ自部門の機器の業界シェアはそれほど高くなく業界の最大手企業は欧米企業であったため、課長はその企業の製品ラインナップに近づけられるよう、穴埋め式に企画を立て続け、開発・生産委託先との調整に奔走していた。彼は以前、東南アジアで別の事業の立ち上げに関して実績を持っており、外交は確かに上手であったので、僕ら一般職はおとなしく担当業務を進めていた。
それから月日は流れ子供が生まれたり、保育園に入ったり、住居を購入したり、職場のロケーション変更があったり、僕も人並みに(?!)様々なライフイベントを経験した。仕事の方は幸か不幸か変化の乏しい業界の製品であったため、僕の事業部の売り上げは堅調に推移していた。営業・開発全部合わせて50名程度の部署ながら売上高は数十億円の規模となっていた。だがこの事業の影の立役者で評価システムの構築や僕らに技術的な指導をしてくれた先輩Aさんはこの事業部に愛想を尽かし、他の部門へ転籍してしまっていた。彼同様、営業部門からも僕と歳の近い気の置けない同僚たちはAさん同様、次々と別の部署に社内公募というシステムを活用して異動していった。みんなトップダウン一辺倒で部下に対して高圧的な態度で接する役職者に愛想を尽かしたのだ。
企画開発課に視点を戻すと多少人員の変更はあったものの、開発プロジェクトを担当するのは相変わらず一人か二人。約1年かかる開発期間中に作成・確認しなければならないドキュメントは数百あり、そのうち約半数は英文である。中国や台湾への海外出張や英語でのディスカッションやメールのやりとりには大分慣れた。入社したころはどちらかと言えばスペシャリスト志望であったが、気が付けば電気、ソフト、機構、規格、印刷物作成など幅広いジャンルをカバーするマルチ型のエンジニアになり、プロジェクト・マネジメントの業務を何年も続けたことでコミュニケーション能力やドキュメント作成スキル、マネジメントのコツのようなものを体験的に学べたように思う。
年間数十台しか売れない機種から年間数万台売れる機種までいろいろな開発担当を行ってきたが、いつまで経っても課長は本来やりたかった新製品企画の仕事を与えてくれない。中国などの新興国へ出張し委託先担当エンジニアとディスカッションしたりするのは楽しかったが、仕事を通してなりたい自分になることはなかなかできない状況のままだった。今から4年程前であろうか、僕らの部署が委託型開発に行き詰まりを感じ開発の一部と生産の一部を社内で行うような体制に舵を切ったのは。ようやく我々エンジニアが開発プロジェクトの企画をできるようになると淡い期待を一瞬持ったのだが、ウチの課長にそのつもりはさらさらないらしい。営業出身の管理職ばかりの事業部においてエンジニアは常にマイノリティ。言われたことを粛々とこなすことだけが仕事なのだ。別に昇進したくて働いてきた訳ではないが、発言の自由も職種選択の自由も認めない企業で社畜生活を続けるのはもう嫌だ。そう感じた僕はこのころから転職か他部門への転籍を本気で考えるようになっていった。
続く
2019年はフリーターとしてスタートしました。 サポートしていただけたら、急いで起業します。