自分はアファンタジアらしいので認知について考えてみる
アファンタジア、らしい。かっこ良いので嬉しい。言葉を知ったのは昨日。
アファンタジアとは
「心の盲目」とも称されるもので、視覚的イメージを想像出来ない人に対して用いられる……らしい。大口を叩ける程詳しくは無い。
例えば、普通の人は「赤いリンゴをイメージして」と言われれば、目を瞑っても赤の色をした、丸い形のリンゴを目で見ている様に想像出来るらしい。
対してアファンタジアは、それが出来ない。ぼんやりと出来る人も居るらしいが、少なくとも私は一切出来ない。
視覚的イメージのみならず、全ての五感においてこれが起きるケースもそこそこらしく、私もそれに該当している。
匂いも味も感触も音も全て想像が出来ない。勿論、認知は出来る。金木犀を香ればこの香りは金木犀だと言えるし、高いチーズと安いチーズの違いも分かる。
ただ、後からそれらを想像しろ、と言われると困ってしまう。
どういう感じにイメージ出来ないのか
中々言語化が難しい。
赤いリンゴを想像したとき、赤色も丸も私は想像出来ない。ただ、リンゴが赤くて丸いのは知っている為、赤いリンゴと言われて赤いリンゴの概念を想像する事が出来る。
これは決して五感的なイメージではなく、通常生きていて心の中以外で感じたことの無い感覚でイメージしている。
私はこれを概念的認知と仮称している。
私は正円も楕円も想像する事が出来ないが、正円は中心と円周の間の長さがどこにおいても等しく、楕円はそれが等しくないと理解している為、その概念で想像が出来る。
そしてこれは、言語化が不可能であろうと認知出来る。
例えば、私はミノカサゴがどんな姿をしているのかを理解しているし、後から想像も出来る。
しかし、視覚的にミノカサゴは現れず、言語的に認知している訳でもない。
赤と白で、ヒレの様な物が細かくなっている、というアバウトな言語化しか出来ないが、それでも私の脳内にはミノカサゴの概念が漂っている。
そしてこの概念的認知は、必ずしも実態を伴った物体に対してのみ発揮される訳ではない。
例えば、「考える」という動作に形は無い。人間が考えている様子を想像することで考えるの視覚的イメージをおそらく作るのだろう。
しかし、私は考えるという動作に概念がある。
自分が物事を考える時を追体験して、それを概念としている様なイメージだ。
そのため、体験的認知とも言えるかもしれない。
ミノカサゴだって、見た事があるという体験から認知しているのかもしれない。
私の感覚として、これらの認知は自分では開けられない引き出しの中に入っている。
想像するのはその引き出しの中に入っている事象であり、事象そのものは観測出来ない。
赤いリンゴが引き出しの中にあるという事実を認知している様な感覚である。
不便しないのか
しない。と言い切るにはたまに不便がある。
例えば、私は一度見たものを覚えてから絵にする、というのが出来ない。
自分の家の外観さえ描くことがままならない。
友達の顔を描け、なんて言われてみれば、目と鼻と口がある以外知らないのだから、友達と同定出来る何かを描くことは出来ない。
しかし、自分の家と他人の家の区別は付くし、友達の顔の見分けも付くのである。
あるいは、数学の図形問題など完全にお手上げである。
脳内に図形が無いのだから、それの操作など叶うはずがない。
概念的認知はこういったケースで不便なのである。
他にも、私は小説を読んでも情景が想像出来ない。
私はこれをむしろメリットだと思っているが、普通の人からしたら何とも味気ないと感じるのだろう。
楽しかった事を楽しかったとしか覚えられないのも、恐らく不便なことなのだろう。
友達と遊んでも、その時の情景を後から想像することは出来ない。私はこれが普通だったので何も思えないのだが。
他にも色々教えてよ
夢は見る。後から想像出来ないので分からないのだが、視覚的イメージも伴っている気がする。
恐らく夢の中では五感もある。しかし、目が覚めてしまえばそれを後から想像出来ないので、知りようがないのだ。
後から夢を概念的に認知することは可能なので、夢の内容を他者に伝えることは出来る。
今日の夢は友達と喧嘩する夢だった。理由は私が10月生まれだから。ちなみに私は4月生まれである。
考え事は問題なく出来る。
授業中ゲリラが学校に乱入してそれを退治する妄想だって可能であった。
ただ、そこに視覚的イメージは無く、概念的に考えていた。
ゲリラが来るという概念、それを自分が退治するという概念がただ漂っていたのである。
概念的認知について詳しく
本当に難しい。何せ、普通の人の感覚が分からないのだからどこまで説明すれば良いのか分からないのだ。それに、心の中の説明なんて基本的に不可能だろう。
しかし頑張ってみたい。なんとなく。
「考える」という動作自体について考える(考える時にする動きを考えるのではなく)ときの感覚が恐らく近いのではないかと思っているが、分からない。この感覚が言語化出来ないモヤモヤしたものであれば、それが私の常なのであるという理解で構わない。
箱の中身はなんだろなをやる時の、触覚だけで形作るあやふやな輪郭はかなり似ている様に思う。この感覚がみんなと同じなのかすら怪しいが。
暗闇で自分の知らないものに触れた時の、何か分からないがただそこに在るという感覚。それを常にやっているのである。
難しいと思うが、「色が無い」という状態を考えてみてほしい。黒でも白でも灰でもない、色がない状態。
その虚無のプールの中に、「らるごとめり」を想像してみて欲しい。(らるごとめりは存在しない言葉である)
「らるごとめり」は時間の中の思考にある空間である。それが虚無のプールの中に在る。
あるいはそれはモノクロの時計で、虚無のプールと色が混ざりながら時間を刻んでいる。
あるいは「らるごとめり」とモノクロの時計は等しく、互いに混ざっている。
これを視覚的にイメージしようとすれば、概ね似た感覚になると思う。(本当に分からないが)
違うアプローチをするのならば、私が木漏れ日を想像して思い浮かべるのは、言うならばねじ曲がった鉄パイプのトンネルである。
それは連想で地面の抜けた道を思い浮かべるし、あるいは鉄パイプのトンネルは色の無い光である。
届かない崖の上の、見えない宝箱の様な感覚である。
「概念」を想像した時の概念のテーブルに融解した物々を押し並べるとこうなのではなかろうか。
何を言っているのか分からなくなってきた。
1+1をする時、わざわざ1つの飴にもう1つ飴を増やして合計は2であると考えてはいないだろう。
1は1であり、1+1は2である。それが概念である。
それを全ての概念に周延したのが概念的認知である。
1に五感のイメージは無いと思われる。そうであれば、何で認知しているのか。答えのないそれが概念的認知である。
私はそれをリンゴに対しても友達に対しても思考に対しても行っている。
なんだったんだ
これらは、アファンタジアが全員こうだと言っているのではなく、私個人がこうだというだけの話である。
調べた限り、アファンタジアにも様々な個人差があるらしい。
私は五感も言語も伴わず思考をしているのでこうして思考を文章にすると変なことが起きる。
言語化が上手く私の様に概念的認知をしている方が居れば、是非とも言語化の答えを教えて欲しいところである。
終わり