花椿
―――生きて生きて生きて生きて生きて生きて生き続けても所詮この世は生き地獄。
じゃらんじゃらんと弦を荒く強く弾いて彼女の歌は終局を迎えた。美しい細工が施された高価な琵琶をまるでごみのように放ると、彼女はそのまま気だるげな所作で流れ落ちた髪をかきあげた。
白い肌が暗闇の中でぼんやりと浮かび上がる。女は深い黒の瞳をぐるりと回しこちらに向けた。その動きは人というよりもまるで獣のようで。彼女の赤い唇がぎゅうと弧を描く。うふふ。溢れ落ちる鈴の声は部屋の壁にぶつかってぐわあぁんと何度も反響しながら上空に消えていった。
「わっちの悲しみが主にわかるかえ?わっちの胸の奥に溜まった悲しみの泉が主にはわかるかえ?いいや、それは否じゃ。男に買われ抱かれるだけの運命しかないわっちらの気持ちが世界を自由に歩き回れる主にわかるはずがなかろうて」
「……そんな言い方しなさんな」
カ、ンッと煙管の中身を落として、呟く。自分の言葉が気休めにもならないことは重々承知していたが無言を貫き通すことはできなかった。
「ここから出たいなら出してやる」
女の目が一瞬大きくなる。だが、それはほんの一瞬のことですぐに女は大声で笑い始めた。身を捩り心底おかしそうに、まるで狂ったかのように。
「ふふふ、うふ、何を言い出すのかと思うたら!主よ、そんな戯言がわっちらに通じると思うてありんすか!」
「戯言などではありはせん。本気じゃ」
「そう言って、わっちらをこの店から出せもせずに死んでいったやつらが何人いたことか」
「宵月…、いや、春波」
源氏名でなく失われたはずの名前を呼べば、女の瞳を染めていた狂気の色が初めてなくなった。細く綺麗に整えられた美しい指をそっと握る。
「『わたし』がここに残ろう」
ふるり、と握った手が震えた。
「『わたし』でも取り繕えば女に見えるだろう。店の女どもが『わたし』を女だと間違えることもあるからな」
なかなか魅力的な案ではあった。事実、『彼』は見目麗しかったし、妓女の中には『彼』が来ることを心待ちにしているものも多くいた。花魁の中でも最高位の太夫の客であるからそれは叶わぬ夢の中の夢にすぎなかったが。
「わたしはお前の望みを叶えよう」
甘い言葉を吐く男なら何人もいた。だが今、その言葉を言ったのは彼女が最も信頼している――そして唯一友人と呼べる人だった。嘘なはずがない。
「わっちの代わりに主がこの牢獄に囚われるのかえ?」
「なぁに。暫しの間だ。すぐに逃げおおせてそなたのもとへ辿りつくさ」
にっこりと男は笑った。女にとっては非常に甘い誘惑だ。だが、同時に男の考えが甘すぎる考えだということもわかりきっていた。
囚われ人は囚われる続けるのみ。
「主の申し出は有難か…だが主までこの牢獄の住人にしたくはない…」
「遠慮は不要だよ。お前の望みを言ってごらん」
「……主がわっちに会いに来てくれること。それだけで十分じゃ。これ以上に幸せなことはない」
「それがお前の幸せなのかい?」
「幼少の折りにここに売られ、ここで生き抜くため己を守るためにわっちは太夫までのぼりつめた。しかし身体は守れても心を守り続けることは難しい。そんな時にわっちを救ってくれたのがお主じゃ。主はわっちの中を全て暴き、わっちのために怒り、涙してくれた。この牢獄で多くの妓女が死んでいく。だが、わっちはそんな中で最も幸せな女だろうて。だから―――」
男は頷いた。女は顔を綻ばすと再び琵琶を手に取った。
じゃらん、じゃらん。
再び琵琶の音が部屋に木霊する。
もう外は夜明けが近い。
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たぶん5年前くらいに書いたやつ。
いつも読んでいただきありがとうございます。 小説は娯楽です。日々の忙しさの隙間を埋める娯楽を書いていけたらと思います。応援いただけたら本を買い、次作の糧にします。