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【真宗は“禅定”は仏教に必要ないことにしているのか?】(2)

【真宗は“禅定”は仏教に必要ないことにしているのか?】(2)

 前回は*六波羅蜜と真宗を論じる前に、そもそも仏道はエビデンス主義とイコールなのか? というところに話しがいってしまい、タイトルになっている主題を論じませんでした。
「時を戻そう」(笑)
六波羅蜜の後半の3つ 4.精進 5.禅定 6.智慧 に関しては、真宗は非常に抽象化の強い捉え方をしているのかと思います。普通は「定散ニ善をひるがえし」といい大乗仏教修行の定番である、禅定を修する(定)、戒律を守る(散) 等はいらない、……真宗はそう言っていると考えられがちです。 
しかし、そう解すると*「造悪無礙」の問題につながるので、定散二善が目指すところを“信心”で成就できると考えている、…と解するべきかと私は理解しています。

そもそも六波羅蜜は仏のような智慧を得るためにやるのですが、6番目の智慧は前5つの行の結果なのか? それとも智慧が先に生じているからこそ、前5つを行じる必要が理解できるのか? という問いがあります。前5つを決まりきったことのように行じて、それが仏道の行になるのか?、それは道徳や法律の守り方であって、智慧を生じさせる仏道修行の行になるのか?という問題です。
曹洞禅などではそういう問題意識を「修証一如」である、と言いあらわしたりします。
禅定以前の4つは具体的行為として規定しやすいので、それを法律を守るかのように守り、禅定を外側の型として、型どうりやれば仏と同じような智慧が生じるものでしょうか?
生じる…という前提で「修証一如」という様な繊細な問題意識を持たずに行じると、禅は今日体育会系文化に受け継がれてしまっているような、脳みそを筋肉化したような硬直した男性型文化になる…と私は感じています。

ある意味「戒」を持たない、身体的「型」もない真宗は、まず仏から回向された智慧を受ける…というところからでないと始められないところがあるので前述のような体育会系型文化にはなりにくいと思います。
これはよい点だと考えます。
宗門の大先輩である金子大榮先生は、まず仏から回向された他力の智慧を受け、それを「分に安んじて、分を尽くす」という理解を持って生活に表せば、ごく当たり前の凡夫の社会生活がそのまま六波羅蜜を行じ、また六波羅蜜の成就であるような生活になりうる‥という言い方をされました。しかし悟りそのもは浄土往生の後‥とされて「真宗の現世利益」として表現されました。
そして、禅定に関しては、1. 職業の価値を社会に布施する気持ちを持ち、2. 職業の意味をだいなしにする行為をしないように持戒し、3. 自分をその職種の第一人者のように思わず、多少の屈辱にも耐える忍辱を行じる、という6つの内前3つの徳を持てる人には自ずからなる精神の安定がおとずれ、それが自ずからなる禅定になる、…とされました。
六波羅蜜が互いに関連しあっていること、そして“仏から智慧を賜わる”、という中心点から仏道修業を見直すことができる眼をお持ちの方の素晴らしい見識だと思います。

ただ、僭越ながらそういう抽象度の高い解釈をせずとも、「マインドフルネス」などでそんなに難しいかたちでなく禅定を体験できるようになり、禅定に対する様々なニュアンスを議論できるようになった世代である我々からすると、もっと直接的に真宗における“禅定”ともいうべきものを指す言葉が親鸞聖人にはある、…と私は考えました。
聖人の和讃に
「弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」
というものがあります。
ここで、禅定という言葉に少し注意をはらう必要があるかと考えます。禅定の代表的なイメージとして曹洞禅があり、俗にそれは「無念無想」を目指している的な理解があり、ある時間幅をもった概念を繰り返し憶い出すようなものを仏教の禅定だとは思っていないところがあるかと考えられます。
しかし、実はマインドフルネスのもとになった上座部の止観(シャマタ.ヴィパッサナー)の観の部分でも仏陀の教えの基本を思い返しながら、世界を観察し直す、ということをやるので、その中で一定の概念を憶い起こすような作業を行います。
曹洞禅もイメージによる理解ではなく、道元禅師が重んじられた『涅槃経』の『八大人覚』にある禅定の注釈などを見ると、「法に住して乱れず、禅定と名ずく」、とありその一つ前に「不忘念(ふもうねん)」という徳目があり、それは「…法を守って失わず、正念と名ずく、又不忘念となずく。」とあります。どうも禅定はこの不妄念という徳目に先行されていて、それは仏陀の教えを容易に忘れない…憶えている…日々の生活の中で、ということと一続きのようです。
仏教の禅定というのは、“教えをよく覚えている”、=一定の概念を覚えている、いうことと無縁に行ずるものではないようです。
なので「憶念の心つねにして」の“憶念”は他宗においても禅定の一部であり、そして真宗においては禅波羅蜜の成就と考えていいのかと私は思います。

「弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは」の和讃ですが、真宗においては、信心は賜わるもの=智慧です。そしてとなえるのは私の口がとなえるのでこの和讃は、賜った智慧を「称える」という自己の口業として確かなものにしていく、曹洞禅における「修証一如」のようなプロセスを表現しているように私には思えます。
「憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」これも仏教的に助かるようなことが何も一貫してできない私が、賜ったものを“恩”と感じ続けることなら仏の助けを借りながらできる……という「修証一如」的心境の表現であるように受け取れます。
 恩を感じるのは “私” であり誰かがしてくれるわけではないのです。しかしこれも私に先立ってしてもらっていることがないと成り立たないないという、智慧が先にやってきて私の “おもひ” が後から追いかけ確かにするプロセスに見えます。 これらは「修証一如」という問題意識とつながっていませんでしょうか?
ちょっと自分独自の解釈が過ぎるでしょうか? 「弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは」という部分も「とにかく理屈はいいからとなえなさい、そのうちふっと信心を得られることがある」と解されてきたこともあるようですが、教育を受けた現代人が昔の人のように気持ちを開いて念仏をずっととなえていられるものでしょうか?
近代以降の真宗を大乗の基礎たる六波羅蜜を切り口にされて論じられた金子先生を踏まえて、禅定が真宗の中でどう吸収されてきているかを書いてみました。
これって独自解釈ですかね? ご意見ある方どうかご教授下さい。


*造悪無碍(ぞうあくむげ)   浄土真宗における異端的解釈。一般的な戒律や世俗の道徳などは無視できればできるほど、阿弥陀の誓願に対する信仰が深いと解釈する。


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