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自分も人も次の門に入らせない僧侶

【自分も人も次の門に入らせない僧侶】

今年のお正月だったかな? 『意識した言葉をつかう』というタイトルでnoteにあげた文章があります。宗門の大先輩が「人に伝わらない、ということはその事をその人が本当には理解していないという事だ。」
とおっしゃったことを引用した文章です。 その大先輩は「本当に自分が理解しているなら、日常使っている言葉の真意として言い直せる」という意のこともおっしゃっていました。

そんな事が記憶に残っている中、乃南アサさんという人気作家さんのエッセイに、※その正反対のお坊さんが描かれていて、これも一種のお坊さん ”あるある“ だな~と思いました。
引用します。
『初めて「お坊さん」と話す機会を持ったのは24才の時だ。祖母が亡くなった。大正時代の終わりに上京してきて祖父のもとに嫁いだ祖母は孫の目から見て信心深い人だった。ー中略ー
「大変なもんですよ、そりゃ。人ひとり亡くなるっていうことは」
初めて落ち着いて人の言葉を聞いたと思ったのが、その一言だったような気がする。初七日の法要を済ませて身内だけで一段落したとき、そこにお坊さんが来ていた。ー中略ー
「あっ灰皿もらえます?」
彼は気軽にそう言うと、懐から煙草を取り出して、うまそうに吸い始めた。
へえ、お坊さんは煙草を吸ってもいいんだ。物珍しさもあったから、こちらは出来るだけ傍にいて、大人たちの会話に耳を傾けていた。ー中略ー
なるほど、人の生き方には色々とあるものだ、などと考えていたとき、そのお坊さんがふいに「酒がねえ」と言った。
「好きなんです。特にお勤めが済んだ後なんて、声を出しますから、冷たいビールとか、ごくごくっといきたいところです」
あ、いやいや、いいんです。今日はまだ午前中だから、こういうときには飲まないように、住職からもキツく言われていますから。ー中略ー
お坊さんらしくない風貌というのは、逆の言い方をすると身近に感じられるということかも知れない。相当なヘビースモーカーらしいのは見ていて分かった。この上、法衣を脱いで酒をのみはじめたら、単なる酔っ払いのおじさんになってしまうではないか。その方が愉快で楽しい話しが出てきそうなものだという気もする。
「うちは小さい女の子が一人いるんですが、もう嫌がられちゃってねえ。『パパ、おちゃけくちゃい』なんて言われちゃって」
 お坊さんが子どもに「パパ」と呼ばれることも不思議なら、それでも酒をやめない飲んだくれの脱サラ僧侶というのも興味深いと思った。そのうちに、お坊さんは大人に混ざって神妙な顔をしていた子どもたちや若者に目をとめた。ー中略ー
「あっ初めて?そうか、だったら聞きたいことがあったら聞いてみてよ。せっかくの機会だからさ」
 ちょっと面白いことになりそうだと思った。当時から好奇心だけは強かった私は、これを機会にお坊さんと親しくなって、それこそ居酒屋辺りで飲みながら話せるようになったら、興味深い話しを聞けることになるかも知れないと考えたと思う。それで、何か質問した記憶がある。中身は忘れてしまった。ただ覚えているのは、お坊さんの表情がわずかに硬くなったことだ。
「それはさ、仏教の考え方では…っていうことになってるんだよな。だから、今の質問みたいな考え方自体、しないんだ」
いきなり、そんな答え方をされた。その後いくつか質問を重ねても、すべて同じだった。
まず「仏教では」「うちの宗派では」と前置きされる。意味の分からない四文字熟語が出てくる。
せっかく身近に感じそうになっていたそのお坊さんが、一気に遠のいた。ー中略ー
 そのお坊さんとは、その後も数年に一度、法事の度に会う機会があった。いつでも酒の話しになったり肝臓の話になったりして、一応ざっくばらんな雰囲気になるのだが、そうした日常に即した話しの中から、自然と仏教につながるものが出てくるということは、ついになかった。その人の人柄に接したり、ああ、これが仏教、これが僧侶かと感じることも、なかったと思う。」

と、まあこういう文章だったのですが、何と言いましょうか…。このお坊さんは『豊かな黒髪で横分け』とありましたので、ほぼ間違いなく浄土真宗の僧侶だったと思われます。
もっとも飲酒も妻帯も気にしないのはいまや日本の各宗派似たようなものです。日本仏教の特徴と言ってもいいものでしょう。
そして、乃南さんも、日本仏教のそんな脈絡は何となくは分かっておられて、彼女の仏教理解の中では禁欲的戒律があるはずの僧侶と、飲もうが子どもがいようが気にしない僧侶とのギャップがあるのをはじめは“面白い”と感じておられます。
そして、質問されるのですが、結局『仏教では』『うちの宗派では』『わけの分からない四文字熟語』という言葉の印象だけ残こられた、ということは自分ごととしての言葉はついぞそのお坊さんからは聞けなかったということでしょう。 そして、こういうタイプのお坊さんが少数派かというと、むしろ多数派である、……と自分の経験から思います。

私は今日、仏教が日本で衰えてきている原因は、色々複合的要因もあるのでしょうが、僧侶が自分ごとになってない仏教理解をして、自分ごとでない言葉を使って一般の人にそれを説いている、…ほとんど何の自覚もなしに! ということが大きいと思っております。
 最初にあげた、大先輩の言葉「人に伝わらないということは、本当には理解していないこと」
を肝に命じて、各宗派とも励まないと、せっかく先人の築いた日本仏教の大伽藍も葬送儀礼以外社会で果たす役割りが無くなり、内側から矮小化していってやがて崩れていくように思えてなりません。

 ※ 『私の死生観と宗教観』/『月刊住職』編集部 編 興山社 より一部引用



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