アイドリッシュセブンに、特別なことは何もない
2022年度も折り返しを迎えようとしている。
日本人のさがというか、1年の始まりはどうしても年度の始まりである4月になることが多い。
自分の手帳は4月始まりなのでまだ文房具店の手帳コーナーには縁遠いが、誰かにとっては切り替えの節目の時期であることは間違いがない。
いわゆる『ソシャゲ』がオタクの一大ジャンルを築いてからというもの、そういった節目の日が増えた。
リリース日はソシャゲのお誕生日であると共に、その一年を無事迎えられたというおめでたい証明の日でもある。
ソシャゲが生まれては消えていく中で、『7周年』を迎えられたのは、本当に本当に奇跡のような出来事だ。
2022年8月20日の国立代々木競技場でおめでとうを祝えたことをずっと思い出すのだと思う。
それくらい、自分にとっての『アイドリッシュセブン』の7周年は大きなものだった。同時に、自分の中で何かが根付く瞬間であったことも。
ーーー
そんなわけでだいぶ7周年から時間は経ったが、今回もこうして記事を書いている。
もはや恒例となってしまったアイドリッシュセブンへのクソデカ感情note、ありがたいことに楽しみにしてくださる方もちらほらおり、本当にありがたい話である。みなさまありがとうございます。
冒頭にも書いたように、アプリゲーム『アイドリッシュセブン』は、2022年8月20日に7周年を迎えた。この日を迎えられて、自分を含めたマネージャーたちは感無量だったと思う。けれど、マネージャーの多くが7周年を見ることを信じていたのも確かだ。このアプリゲーム戦国時代において、「アイドリッシュセブンの7周年が楽しみだね!!」と数年前から言えること、未来を信じられることはとても強いことなのだと思う。
7周年を迎えて、アイドリッシュセブンは一つの節目となった。しかし、これは「節目」であって、終わりではない。結末を迎えるけれど、完結ではないのだ。
そんな中で、この7年間で培われてきた、「アイドリッシュセブンって素晴らしい」という気持ちを少し紐解いてみたいと思う。
毎度のことながら、これらのnoteは個人的な見解であり、どこともなんの利害も絡まないアイドリッシュセブンオタクのクソデカ感情であることをご了承願いたい。
アイドリッシュセブンの独自性は弱い
おめでたい記事の中で突然のネガティブな発言で申し訳ない。独自性、というとなんだか難しい話に聞こえるけれど、ここで言いたいのは「アイドリッシュセブンって他のソシャゲとどう違うの?」ということだ。
これはすごく難しい話だと思う。なぜなら、アイドリッシュセブンをどんなコンテンツとして捉えるかによって全く強みが変わってくるからだ。
二次元アイドルジャンルとして捉えれば、「ストーリー」という人もいるし、二次元発のアイドルとして捉えれば「正統派王道アイドル」おいう人もいるだろう。ソシャゲ、音ゲージャンルで言えば「万人受けする難易度/やり込みもできる」という人もいるかもしれない。
けれど、その中で、全くアイナナを知らない人から「アイドリッシュセブンって他のソシャゲと違う所ってどこなの?」と聞かれた時に、私はちょっとだけ答えに迷う。
もちろん上記に挙げたことをはじめとしたいいことをたくさんあげることはできる。相手に合わせてアイナナの布教もできるけど、そこで「それってアイナナだけがやってることなの?」と聞かれるとちょっと答えに迷ってしまうと思う。
この7年間で時代もエンタメもたくさん変わっていった。
たくさんのコンテンツが独自性やこのコンテンツならでは、ということを打ち出している中で、アイドリッシュセブンというコンテンツにおいて、何か「アイナナだけ」が持っているもの、ということを考えたとき、唯一無二の施策(他ジャンルがやっていない/先駆けてやっている)ことは、あまり多くないことに気づく。
平均してバランスがいい、という言われ方をすればその通りであるのだけれど、このソシャゲ群雄割拠時代で、「平均的な優等生」であるだけで生き残ってこれるのだろうか。
多分、単純なソシャゲだったり二次元アイドル育成ゲーム、というだけではアイドリッシュセブンというコンテンツはとても弱くて特異性のない、ありきたりのジャンルだったのではないか、と思う。
もちろん平均水準を常に保つと言うのは生半可なことではない。それを7年やってきたというのは、平均を保ってきたということの証明でもあるだろう。
だけどそれでも、ソシャゲとしてのアイドリッシュセブンというコンテンツだけをみたときに、どうしてこんなにも熱量の高いジャンルなのだろうという疑問は常にある。
ゲームのしやすさ、ガチャの展開、ソシャゲとして変化し続けるゲームであること。「集金の効率化」「新ユーザーの獲得」をし続けるためには、常に新しくリリースされるゲームたちと張り合い続ける必要がある。
そのためにアイドリッシュセブンならではの独自性、というのが必要となる。
ではアイドリッシュセブンだけが持っているもの、というものは何なのか。
システムやゲーム性を筆者が愛してやまないアイドリッシュセブンは、何がこんなに様々な人の気を狂わせているのか。
禅問答みたいな話になるが、それは「アイドリッシュセブンであり、アイドルである」ということなんだろうなと思う。
アイドリッシュセブンがアイドリッシュセブンであり、アイドルであるということ
今回noteを書く前に、ドキュメンタリー映画を一本観た。
(ももクロの熱烈なオタクに布教され続けてたので見ました)(まじでいい映画だったのでこれの感想もそのうち話そうと思います)
この中で、「アイドルとは何か」という問いかけがずっとされていた。
いつまでアイドルでいるのか、アイドルとはなんなのか。辞めたいと思ったことはないのか。
ティーンエイジャーでデビューしたももクロちゃんたちは、アラサーを迎えた今も現役のアイドルとして活動し続けている。
その中で、リーダーである百田夏菜子さんがこう言っていた。
『私たちは天下を取りに来ました。だけどそれはアイドルの天下ではありません。笑顔の天下です』
(正確じゃないですすみません…)
このセリフを聞いた瞬間に、色々なものが腑に落ちた。そう、アイドルであることは、誰かを笑顔にできる存在であるということなのだ。ももクロは一つの「ももいろクローバーZ」というエンタメになっている、と同作中で語られている。それと同じなのではないか。アイドリッシュセブンというコンテンツは、そのものがアイドルであるのではないか、ということである。
もう一つ別の視点から。
アイドリッシュセブンの7周年記念イベントである「ONLY ONCE ONLY 7TH」にて、キャストの皆さんから様々なコメントがあった。八乙女楽役の羽多野渉さんは「息を吹き込んでくれたのはユーザーの皆さんも」とおっしゃっていたし、七瀬陸役の小野賢章さんは「製作陣の皆さんはずっと、僕たちキャストが関わらない時間もアイナナのことを考えているんです」とコメントされていた。
また、今回の「OOO 7TH」で4グループの3Dライブがお披露目となった。その制作スタッフとして携わった会社やモーションアクターの方からは「これ、自分たちがやったんですよ!!」という発信も見られた。
それだけではない。衣装デザインを担当されていた中原幸子さんと南さんの対談や、新曲披露のたびに関わったことを表明してくれる作曲家、作詞家の方々などなど、アイドリッシュセブンは制作側として携わった人たちからの発信が非常に熱いコンテンツではないか。
そういう人たちが可視化されることによって、ソシャゲというコンテンツーー目にみえる成果物である「アイドリッシュセブン」というキャラクターたちの物語だけではなく、作り上げる人々たちにどんな思いがあるのか、どれほど「アイドリッシュセブン」というコンテンツに関わる人間がたくさんいるのかが浮き彫りになってくる。
以前の記事で書いたことと同じ話であるけれど、比較的表舞台に立つことの多いキャストの皆さんだけではなく、直接は見えなくても、アイドリッシュセブンを愛して、愛されるものであるように作り上げている人がいる。それが年々顕著になっているのではないか。
アイドリッシュセブンは、アイドル=誰かを笑顔にする存在であり、それらはたくさんの人々が関わることによって厚みを帯びて生まれている。キャラクターというわかりやすい記号になっているけれど、それがコンテンツそのものが巨大な「アイドル」の概念となっているのではないか。
だからこそ、携わる人たち、触れる人たちが笑顔になれる。アイドリッシュセブンのキャラクターもそうだし、キャストや制作陣が頑張っているということを知れることで、「こんな世の中で誰かを笑顔にするために頑張ってる人たちがいる」と思える。
そうして、その要素を取り込んで、「自分たちも頑張ろう」という日々の糧にできるんじゃないだろうか。
アイドリッシュセブンにきっと特別なことは何もないけれど、だけど「自分にとっては特別な」コンテンツ
そんなわけでとても大きな主語で話を続けてしまったけれど、この 7年間で随分と自分自身も変化したと思う。
7年という時間は過ぎてしまえばあっという間だったけど、だけど決して短い時間ではないはずだ。生まれた子供が小学生になるくらいの時間、年号が変わって住む場所も考え方も人付き合いも変わっていった。
おそらく、自分の中でアイドリッシュセブンとの距離も変わっているのだろうと思う。
いわゆるオタクであり、根っからの同人野郎である自分がハマる「ジャンル」ではなく、どんなジャンルにハマっても消えることなく根を張り続けるものに、アイドリッセブンは変化していっている。そのくらい自分の中では「特別」なものだ。
好きじゃなくなるとか、ずっと好きだとかそんなことは言えないけれど、彼らに触れるたびに元気になれる。笑顔になれる。自分がこんなふうに自分や身内のこと以外で情緒を乱されて大泣きして笑えるなんて、きっとそうそう出会えるものではないのだ。
もちろんこれは「アイドリッシュセブンだから」というわけじゃない。自分にとってのアイドルが、笑顔になれる存在がアイドリッシュセブンであった、というだけの話だ。誰かに強要するものでもないし、全く同じように感じる人ばかりじゃないこともわかっている。
大人になっていくにつれ、世の中は綺麗なものだけじゃないことを思い知らされる。どれだけ愛を込めようと、コンテンツに数字にはつきもので、人気のあるなしが絶対的な数値となって表される。
可視化されることは大事な指標でもある。社会人である以上、数字と向き合わなければいけないのが世の常だ。
でも、人間はコンピューターじゃない。感情があって、その感情が理性を邪魔をする。時には数字とはそぐわない行動すらとってしまう。
そうして、オタクは多かれ少なかれ感情を大きく動かす生き物だ。
人の心を打つものって、最終的には人の感情なので、それがきちんと伝わることで感情を大きく揺さぶられる人たちがたくさんいる。そういう人たちが愛して、自分たちの中で根を張っているのが「アイドリッシュセブン」なんじゃないだろうか。
王道のアイドルグループの、王道をきちんとやることは、きっと今の世界でバズるものではない。
けれど、アイドリッシュセブンというコンテンツに触れると、コンテンツそのものがたくさんの人が関わることで出来上がることがわかってくるだろう。バズるとか、一瞬だけの輝きとかじゃない。「誰かを笑顔にする、楽しんでもらう」というエンタメコンテンツを作る中で当たり前のことを真面目に取り組んできた人たちが当たり前にいるのだ、ということをあらためて感じる。
アイドルは最初からアイドルであるように生まれてくるわけじゃない。例えそうやってプロデュースされていたとしても、ファンがいなければアイドルにはなり得ない。誰かが笑顔になってくれること、夢中になってくれることでアイドルは生まれ、そうしてプロデュースする側はよりアイドルがアイドルらしくなるための手法を考える。ファンの気持ちに寄り添いながら、時には戦略的に。ファンは笑顔になって明日を生きる糧なる。そうやってアイドルの文化は発展してきたのだ。
アイドリッシュセブンも、きっと同じだった。
7年前は、彼らはアイドルではなかった。何者かわからないキャラクターとして生をうけ、誰かを笑顔にする使命を担ってこの世に出現した。
彼らが頑張る姿を見ることで、マネージャーたちは笑顔になって時には涙して、一喜一憂しながらここまで歩いてきた。それと同じように、「コンテンツ・アイドリッシュセブン」をプロデュースする制作スタッフたちもずっと彼らのことを考えながらやってきたんだろう。
OOO 7THを終えた時に思ったのは、ファンだけじゃなくて関わってきた人たち全てがコンテンツを祝福していたということだ。そう言うふうに感じられている、と言うのは本当に幸福なことでしかない。自分はただのオタクとして、勝手に元気をもらって、勝手に笑顔になっていたと言うだけなのに、なんだかこの「アイドリッシュセブン」を一緒に作り上げた戦友みたいな気持ちになって、ボロボロ泣けてきてしまうのだ。
だからきっと、これからもアイドリッシュセブンはアイドルとして歩み続けてくれるんだろうという確信めいた何かがある。
誰かを笑顔にして、コンテンツに関わる人たちみんなに祝福をくれるような、特別じゃないけれど、特別なコンテンツとしてそのブランドを確立していくんだろう。
新しい手帳を買ったら、当たり前のように、8/20に丸をつけられる。そういうものになってくれた アイドリッシュセブンに、心からの感謝をしたい。
「このハレの日に祝福のパレードを」
当たり前の日々をかけていく中で、アイドリッシュセブンが誰かの特別なものになってくれますように。
あらためて、アイドリッシュセブン7周年おめでとうございます!