【連載小説】猫人相談所(5・完)僕は僕のまま
僕の後ろの空気がとても冷たく感じる。冬の夜、嫌なカーブを曲がる時のような冷たいさわっとした空気が後ろにある。
「さあ。見てください。私の顔を」
猫人はそういうと、ブランコをもう一度強く押し出す。
「さあ、はやく見てください。これが私の顔です」
ブランコは再度66度を超え、落ちる時は手のチェーンがぐしゃぐしゃになる。そして後ろにきた僕を、猫人は高く持ち上げ渾身の力で押し出す。
僕はその時、ふとブランコを握っていた手を離す。そう、靴飛ばしの靴が飛び出すように、僕の体は25時の夜の公園の闇の中へ放り出される。それは僕自身が事前に意図したというよりは、本能的な反応だった。そのため、僕は着地を失敗しお尻から地面に落ちる。しかし、ラグビーで鍛えた僕の体はすぐさまに反応し、起き上がり、一気に前の歩道へと走りだす。猫人が追ってくる気配は無い。
歩道に出て、オレンジ色の街灯の下に立つ。
猫人は追ってこない。その距離はたった15m程度だろう。しかし、追ってこられてもおそらく駅のほうに逃げていけば、それ以上の危険はないだろう。
僕は街灯の下で、ブランコとは反対側を見続ける。その先には公園の遊具と、車道の向こうに大きめのマンションが見える。
どうしようか。
僕は、振り返って、猫人の姿を見るべきだろうか。
振り返れば、ブランコの横には、その被り物をとった猫人がいるはずだ。僕は、すぐに、その存在を、そして、その顔が何であるのかを認識できるはずだ。
一体、誰がこんなことをしているのか。誰が、猫の被り物をして、こんな悪戯まがいのことをしているのか。考えればとても腹立たしい。僕は、振り返り、その姿を確認し、文句の2つ3つ言ってやるのが当たり前のように思える。しかし、何かが引っかかる。先ほど芽生えた何かが僕の体の中でもっと存在を大きくしてくる。
猫人は言った。私の姿を見るならば、相応の覚悟をしろ、と。元には戻れなくなる覚悟をしろと。それはあまりにも理不尽な脅しに思えるし、あまりにも非現実的なことに思えた。なぜ、ただの被り物を外すだけのことに、そのような脅しを受けなければならないのか。どう考えてもまともではない。しかし、まともではないと言えば、そもそも初めから、こんな夜の公園の端っこで、猫人相談所なるものを開いている時点で、全くまともではない。その後に起きたこと、言われたこと、どれをとってもまとも性のかけらもない。それでいながらも、猫人が話していることは全て、本当のことだろうと思わざるを得なかった。猫人が言っていることに、何かの嘘や欺瞞が紛れているとは考えにくかった。唯一その存在をまどろませているのは、その醜い猫の被り物であり、猫人の主張のウイークポイントは、その醜悪さが滲み出る被り物だった。しかし、猫人はその被り物をとって僕を待っている。とって、僕に覚悟を迫っている。彼、彼女は、その人生、存在をかけて僕に決意を迫っている。
何秒か、何分か、あるいは何時間か。わからない。ただ1つだけ言えるのは、僕には、猫人の顔を見る覚悟が持てなかった。僕は相変わらず、僕のままだった。