意外と知らないアメリカあるある
アメリカに来て7か月がたった。Youtubeのアルゴリズムのおかげで「アメリカあるある」とか "A day in life at ○○"系の動画が結構流れてくるので、来る前からある程度こっちの生活は想像できた。だからそこまで大きな「カルチャーショック」は感じていない。けれど、やっぱり生活してみないと分からないディティールも多い。
そこで今回は、留学生目線の少しマニアックなアメリカあるあるを紹介するYo
トイレの設計ミス
アメリカのトイレ(学校などの公共トイレ)は、はっきり言って設計を間違えている。汚いとかそういうことじゃない(汚いのも嫌だが)。設計が悪いのである。特に個室。
まず、外から見て個室に人が入っているかどうかわからない。これは大変不便だ。日本の個室は、内から鍵がかかると外の鍵が赤にスイッチされるが、このシステムがアメリカにはないのである。そして入っている/いない関わらず、扉はだいたいしまっていることが多い。だから確認したいときは、下からのぞいて確認するわけにもいかないので、恐る恐る扉を押してみるしかない。扉が動かなかったら、何事もなかったかのようにクールに次の個室に向かうのがポイントである。
そして次の設計ミスは、扉や壁が完全に仕切られていないということだ。下が30cmぐらい空いている。
北宋の学者である欧陽脩は、人が良いアイデアが思いつく場所は「三上」であると残している。それは、「馬上」「枕上」「厠上」である。文字通り、馬、ベット、そして便座の上である。しかしこれは真っ赤な嘘である。馬の上はいかに馬を暴れさせないかにだけ神経を使うし、ベットの上ではルームメイトが毎晩披露してくれる喉を最大限活用した協奏曲を鑑賞をするだけである。
せめて便座の上では心を澄まして用を足したいものであるが、下がこうも広く空いていると雑念にとらわれ、これが叶わない。寮の個室では、隣に入ってきたやつのスリッパどころか、ひざ下まで丸見えなのである。だから嫌でも誰か分かってしまう。何を食べたらこんなに臭くなるんだろうとか、一瞬爆音で流れて慌てて消されたのは何のミームだったのかなとか、そんなくだらないことしか思い浮かばない。
あと、便座に座っていたら絶対手が届かないところにペーパーが配置されている個室にもたまに遭遇する。先に気づけばその個室は避けるのだが、急いで入って用を足してしまった際にはもう手遅れである。尻を拭かないまま2 mぐらい移動しなければならないこの瞬間ほど、人類がか弱くになるときはない。
最後に、やはり避けて通れないのがトイレの汚さである。トイレ(個室)を汚くする原因は主に2つある。それは、照準の悪さと紙の散乱である。アメリカで特に気になるのは後者である。長さの異なるペーパーが、ひどいところでは便座の前後左右にまんべんなく散らかっている。
どうした。何があった。いったん拭いたのを便器に捨てるんでなく、上にでも投げてるんだろうか。
意外とSorryって言うじゃん
これもまた意外な発見である。よく日本人は何かと「すみません、すみません」と言うから、英語を話すときも「Sorry」と言いがちっていうのは良く言われるけれど、こっちの人もよく使う。道を開けてほしい時はほとんど「Sorry」だし、静かな部屋で物を落として何か大きな音をたてたときも言う。ただ、日本と違うのは、"Sorry"を"Sorry"で返さないことだ。相手にSorryと言われてSorryと返すと、No, you're good とだいたい返ってくる。相手に何かをしてもらう立場の人がSorryと言えばいいだけの話で、それに応じる人は逆に謝ったり断りを入れたりする必要はないのである。
あと、会話の初めにSorryと言わない。これがいわゆる動画で言われているアメリカと日本の違いみたいなやつである。
Where is ur umbrella!?
というか、傘をさす概念があまりない。こっちで育った日本人の子に話を聞くと、雨が降っている時はフード付きの防水パーカーを着るとのこと。傘を持ち歩くのがめんどくさいらしい。かなり強く降っているときですら、差している人を見つけるのは困難だ。あと、移動=車というのも理由の一つだろう。だから、日本でおなじみの「自転車に乗りながら傘をさす」みたいなことは、ほとんど起こりえない。お巡りさんもこれで仕事が一つ減るわけである。自分も少しアメリカナイズされたので、折り畳み傘はしばらくタンスでお休みしている。
気になったので、アメリカと日本の年間傘販売本数を調べてみた。正確な情報かはわからないが、アメリカは3,300万本、日本が1億3,000万本のようだ。人口差も考えると、よほどアメリカ人が傘を持たないのが分かるだろう。また、日本人が一人あたり3.3本の傘を保有してるのに対し、アメリカが2.1本という統計もある。このように数字と感覚が一致すると面白い。
そんなに遠くから・・・
自分の前を歩く人がいたら、その人はだいたい自分のためにドアを開けてくれる。人よって、後に来る人がどれくらい離れてたらドアを開けるのかの感覚が異なる。たまに、まだドアから10m位離れてるのに、ニコニコしながら待っててくれるみたいなことがある。これは感謝の感情より、早く歩かなきゃという焦燥感を駆り立てられるので、正直5mぐらいが適正範囲であると思う。
開けてくれるだけでなく先に行かせてくれるドアマンみたいな人も10回に2回くらい遭遇する。ただ面白いのが、寒い北東部のキャンパスの建物は、だいたい二重扉の入り口が多い。だから、先に入れてくれたとしても、2つ目の扉を自分が今度は開いてあげるみたいな、プラマイゼロのドアホールディングがよく発生する。これはなんだかきまずいので、これを避けるために自分は一つ目の扉は開けてあげるだけで自分が先に行くようにしている。
結局人種ごとに集まる
アメリカ=「いろんな人種の人がまったく分け隔てなく均等かつランダムににグループを作って関わり合っている」という漠然としたイメージを持っていたが、それはどうやら幻想だったようだ。インド人はインド人、白人は白人、中国人は中国人と言うふうに固まる傾向にある。しかしこれも理解できる。文化が違いすぎるのである。英語のジョーク一つをとっても、「何を言っているのか分かっても、何が面白いのかわからない」というのが良く発生する。感覚的には「中学生や高校生をどこで過ごしたか」が、今後どのコミュニティーに属するかを決める大きな指標になると思う。アメリカに生まれてなくとも、アメリカ人のグループに混ざる人は、だいたい中高をこっちで過ごした人だと思う。人格や価値観がだいぶ固まってきた大学生からだと、違う輪に入りづらい。
少し話は変わるが、「アメリカ人」という主語は大きすぎる。北東部は白人がマジョリティ―だが、冬に訪れた南部は黒人が多い。だから自分が「アメリカ人」と言うとき、具体的にどんな人を指しているのか、それがイメージできない。これが日本からくる交換留学生の悩みでもある。