【教育観:7】高校生に必要な「歴史的思考力」とは何だろう??
おはようございます、ないとぅーんです。
私が学校教員を目指していることは前のnoteでも書いたと思います。
その中でも高校の歴史の先生になることを目指しているのですが
今までのnoteでは、私の「教育観」や「教師観」については語ってきても、
「歴史観」について語ることがなんだかんだほとんどなかったと思います。
そこで今回は、「歴史」の先生として、大切にしたいと思っていることをお話しします。
最近、noteをみてくれた現職の学校の先生の方が、XのDMで感想をくださいました。うれしいお言葉でした。感謝します。
まだ現場にも立ってなければ、教採も受けてない私ですが、現場の先生方も見てくださっているという事を自覚して、今後も発信する言葉に責任をもって、noteを続けていこうと思います。
さて、最近、高校の社会科は変化が激しいですね。
2022年施行の新学習指導要領の検討では、新設の「歴史総合」に関して、歴史総合で高校生に世界史の魅力や面白さを伝え、「世界史探求」へ誘うことが世界史教員の使命であると主張しています。
更には、「歴史総合」によってグローバルヒストリーを学ぶことで、生徒達が世界の諸地域の関係性を考えることができ、生徒の「歴史的思考力」の育成に役立つという主張も加えられました。
この「歴史的思考力」というのが高校の歴史教育における一つの大きなテーマであることはいうまでもないでしょう。
でも、「歴史的思考力」とか「グローバルヒストリー」とか、なんとなくカッコ良さそうな言葉をそのまま受け入れてしまってはいけません。
「歴史的思考力」という言葉の意味を考えずに、歴史の授業をすることなどあってはならないからです。
ここから先、高校生に必要な「歴史的思考力」とはどういった能力かというのを考えていきたいと思っています。
辞書的な定義をたどると、歴史的思考力は
しかし、私は、これらの辞書的な定義は、どれをとっても高校生にとって意味のある「歴史的思考力」であるとは言えないと思います。
なぜならば、現状、今の学校での歴史教育は、高校生にとっては「歴史的思考力」を身に着けるための科目という認識よりも、いかに細かい知識まで網羅的に暗記できるかを競う受験科目という認識の方が勝ってしまっているからです。
歴史的思考力の理念は良くても、実態が…
受験科目という認識が強い高校生にとっては「歴史的思考力」は二の次に過ぎず、その意義を軽視されてしまう。
私の考える高校の歴史の授業における最大の課題は、筆者の考える歴史的思考力の定義など高校生にとっては「他所事」に過ぎず、世界史や日本史の「歴史」はあくまで過去の話で「他所事・他人事」という認識が蔓延している事です。
計量的な根拠をすぐに示すことは出来ないですが、例えば、共通テスト(旧センター試験含む)の世界史選択者が減少しているということから、「受験へのハードル」がいかに世界史を学ぶうえで障害になっているかが読み取れます。
こういった「歴史は他所事」といった認識を改めるために、一部の学者は、グローバルヒストリーと「歴史総合」の学習の意義を主張している人もいます。
でも、「世界史探求」が大学受験科目に残っている以上、この問題は簡単には払拭できません。更には「歴史総合」も来年の大学入試から受験科目に入ることが決定しています。
つまり、科目を新設するだけでは生徒は何が変わったのか全くわからないというわけです。
新たな科目の新設だけではなく、高校生にとって意義のある、魅力的な「歴史的思考力」を示す必要があるのではないでしょうか。
以上を踏まえて、私が考える高校生に必要な歴史的思考力とは「歴史を学ぶうえで、その登場人物や時代背景、思想と『対話』し、歴史を自分事として認識し、自分の人生に活かす能力」です。
一点注意したいのは、私は定義上の「歴史的思考力」観自体を批判しているわけではないということです。
確かに歴史を学び、歴史像を描き、諸地域の関係性を学び、批判的に解釈を行い、現代の社会や政治の批判に反映させることができる力は絶対に生きていく上で必要な力です。
この力があれば、歴史だけでなく、今の日本を知ることができるし、政治や経済のことも見えやすくなる。
しかし、「高校生」という年齢を忘れてはいけないと思うのです。
彼らにはまだ選挙権のない人もいれば、政治や経済についてあまり知らない人もいます。政治や経済など、自分の国のことなど、そもそも受験の際は他人事になってしまい「歴史的思考力」を軽視してしまうんです。(私もそうでした)
だからこそ、受験よりも「歴史的思考力」を身に着ける意義を生徒に実感させるためには「他所事」ではない歴史認識が必要だと思うのです。
その思考力を培う具体的な方法として、新学習指導要領を参考にしました。
生徒に目指す資質・能力を育むために「主体的な学び」、「対話的な学び」、「深い学び」の視点で、授業改善を進めるものである(文部科学省 2018:p4)[ii]
この「主体的・対話的で深い学び」は、通常「(学習に対して)主体的・(クラスメイトと)対話的で深い学び」という解釈が一般的です。というか、これが正解だと思います。
しかし私は、世界史の授業で必要な事は、「歴史に対して主体的・歴史上の人物と対話的で深い学び」だと考える。
「なぜこの時、あの皇帝はこんな政策をしたのか」と疑問を抱いた際に歴史の世界に主体的に入り込み、過去の人物と頭の中で「対話」をする。
クラスメイトだけではなく「歴史」と対話をすることで、過去の政策や思想が段々だんだんと他人事ではなくなり、自分が生きるうえでの価値観が少しずつできていく。そしてやがて教訓になる。
そして歴史によって自分の人生の教訓が得られれば、その人はそれだけで良い社会を紡いでいく架け橋になることができるのです。
同時に、日本史や世界史は「国」の歴史でもあり、「お金」の歴史でもあり、人びとの「人生」や「夢」の歴史でもあります。
最初から今の「国」につながる「大きな歴史的思考力」を目指すのではなく、自分の「人生」や自分の「夢」に繋がるための「小さな歴史的思考力」、自分事の「歴史認識」を目指すことが今の高校生に必要な教育だと思います。
まとめると、私は「歴史総合」及び「世界史探求」「日本史探求」において身に着けるべき「歴史的思考力」を鍛える手段として、「歴史」と対話するアクティブラーニングの開発が高校における歴史教育の喫緊の課題だと感じています。
以上、私の「歴史観」の話を初めてしてみました。
「歴史観」といいつつも、ほとんど「教育観」でしたね。
長い文章、最後まで見てくださってありがとうございました😊
[i] 池尻良平,山内祐平,「歴史的思考力の分類と効果的な育成方法」,2012,p1.
[ii] 文部科学省,「高等学校学習指導要領(平成 30 年告示)解説 地理歴史編」, https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2019/11/22/1407073_03_2_2.pdf
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?