乾杯
「ポピン」
何度も聞いたことのある音がイヤホンから鼓膜に伝わる。ディスコードの入室音を聞くと、部室のドアが開いて誰かが入ってきたときの感覚を思い出す。どれだけ大学時代に写真部に入り浸っていたかを表すようで懐かしくもあり、モラトリアムから抜け出せない己が情けなくも感じる。実際今通話に入ってきた倉重も思えば大学からの仲、つまりもう10年になるのか。軽く絶望しながら挨拶を交わす。
「おっす」
「お疲れ、白石はまだ来てない?」
「どうせまた寝てるんだろ、夜型ってか深夜型人間だからな」
「じゃあ先に始めちまうか」
いつからだろうか、月に1回は倉重と白石と3人で、こうしてオンライン飲みをするようになった。誰が提案しだしたのかも覚えていない。なんなら、こいつらとどういう経緯で仲良くなったのかも、今となっては思い出せない。物事は初めが肝心とはよく言うが、しばらく経てば初めの頃のことなんか覚えていないものだ。
「だから、大事なのは今この瞬間なわけ。今この瞬間に飲む酒が美味いかどうか、それだけが全てなんだよ。」
「お前今日酔うの早いな、ほどほどにしとけよ」
倉重がなんか言ってる気がしたが気にしないことにした。この気持ちよい高揚感と、脳の浅いところから生まれた薄っぺらい思考を口に勝手にしゃべらせる感覚は、酔っているときしか味わえない。
「ってか逆にお前が今日酔ってなさすぎだろ」
焼酎の入ったグラスに炭酸水を注ぎながら倉重を問い詰める。
「いや、酔ってないよ?今飲んでるのコーヒーだもん」
「は?」
「言ったじゃん、原稿やばいから今日は徹夜で作業だって。ってか今も原稿進めてるし」
裏切り者だ。オンライン飲み会と謳っておいて酒を飲まないとはどういうことか。画面に映った倉重のアイコンをにらみつける。
「なんだよ飲んでるの俺だけかよ、もういい。追加の炭酸水もってくる。」
「あ、俺もなくなったから2杯目入れてこよっと」
俺と倉重のアイコンの横に同時にミュートボタンが表示されたのを見届け、台所に行き冷蔵庫を開ける。炭酸水の横に、ヤなことがあった日に飲む用の缶ビールが置いてある。医者に尿酸値が高いと言われて、最近は焼酎を飲むようにしているのだ。でも今日は倉重が飲んでくれない。これは立派な”ヤなこと”だろう。桃屋のやわらぎメンマをおともに、チメチメに冷えた缶ビールを持ってパソコンの前に戻る。
画面を見ると、白石のアイコンが画面に表示されている。俺たちが離席している間に入室したようだ。
「おっす~おはよう」
「おう、ちょっと出かけてたら遅れたすまん」
「あ、寝てたわけじゃないんだ」
「ただいま~、あ、白石いんじゃん」
「うっす、酒持ってきたからとりあえず飲もうよ」
「じゃあ改めて乾杯しよーぜ、酒飲まないノリ悪いやつもいるらしいけど」
「ごめんて~」
「はは」
イヤホンのマイクの部分に缶ビールを近づけ、カシュッと音を鳴らす。
「「「乾杯~!」」」
缶ビールをグビっと喉に流し込もうとしたその時、違和感が口の中を満たす。思わず吹き出しそうになるのを、すんでのところでこらえる。
「なんかこのビール、コーヒーみたいな味すんだけど!!」
あわてて賞味期限を確認するが、特段おかしなところはない。おかしいのはその味だけだ。明らかにコーヒーの味がする。酔っている自覚はあるが、そこまで酔っている自覚はない。舌に引っ張られていた意識を耳に戻すと、白石も何やら通話の向こうでパニックになっているようだ。倉重はなぜかミュートにしている。
「ビ、ビール!?ビール味だこの……この水!!」
「え?白石も?」
「うん、なんかビールの味する」
「倉重は大丈夫?」
そう聞くと、倉重がミュートを解除し話し始める。
「ごめん、ちょっと吐いちゃった」
「え、大丈夫か?コーヒー飲んでたよなお前?」
「うん……でも……」
「血の味がした」
「!!」
「え、大丈夫か」
「もう大丈夫、口ゆすいできた」
倉重が落ち着くまで少し待って、状況を整理する。さすがに酒を飲む気分になれなくて、冷やしておいたお茶を飲む。お茶はいつも通りの味がした。
「つまり、水を飲んだ白石はビールの味がして、ビールを飲んだ俺はコーヒーの味がして、コーヒーを飲んだ倉重は血の味がした……ってこと、であってる?」
「そうだな」
「うん」
しばらく妙な静寂が生まれる。沈黙が苦手なので、間を埋めるように話し始めることにした。
「へ、変なこと言うけどさ、誰か血を飲んで水の味がしてる人がいるんじゃね」
「どういうこと?」
「ほら、今なんかこう、三すくみ?四すくみ?っぽくなってるからさ」
少しの間を挟み、白石が反応する。
「あ~確かに、そういうことかもね」
すると会話に割って入るように、倉重が口を開く。
「いや、三すくみなんじゃないか」
「え?」
「白石さ、お前最初酒持ってきたって言ってこの通話に入ってきたよな」
「なのに乾杯で水飲んだの?」
「お前、今何飲んでる?」
静かな夜が、部屋を満たす。