努力 と センス の相関
2月から準備してきた論文を、やっと一本書き終えた。と思ったら初心者故、査読で全面書き直しをしている (もう推敲は十何回にも)。正確には査読じゃなく、お世話になっている外部機関の知り合いに「共著のお誘い」をしたら乗っていただいたので、その方のアドバイスです。その方は努力のかたまりの様な方で、米国有力学会のフェロー号も持っておられているすごいお方。(その方の発表内容はいつもピンとこない (平謝り) が、、継続は力なりを体現されている。)
僕の書いた論文は、会社的に無難な案件をチョイスしたんだが、やはり貧乏性が出て、言わなくても良い内容が ”散りばめられて”「こいつまだ何か企んどるな」と思われても仕方ない状態なので、これからどんどん削っていくものと思われます。所詮は元設計のエンジニア、、である。
しかし今まで、地に足を付けて努力なしセンスのみで渡ってきた (つもり) が、 今までしなかった努力とか、事の本質を見抜いてからの高見の見物といかず、地から足が離れてフラフラとおぼつかない感触とか、定年まで10年:50にもなって初めてで、周りの皆様方はこういう事で苦しんでいたのか、、と思いつつ自分はもう歳なので、こういう感触も新鮮と楽しもうと思う。
博士号は今後3年以内に取れれば僕的には充分だし、長い人生100年を見越さないといけない。 博士号の為のお金も掛かるが二本位は用意がした。しかしまさか自分が博士号を目指すことになるとは、ちょっとはあったかもだが、まさかです。これも今の60過ぎても現役気取りの上司が、パワハラ的に放牧してるお陰なんですが。
努力って今までまるでしなかったけど、終わりの見えない不安でMな世界だ。センスは広い視野の中で本質を見抜くことだと思うけど‥。
(写真は、最近出来た僕の論文部屋です)
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