今日の分の罪を見つめてる生きるのだから
title:「Misstopia」THE NOVEMBERS
いろいろと思い悩んでいることを言葉にしていこうと思う。
推敲することもなく、話すように書き残していけたらと思う。
長い間自分の生きづらさは「マイノリティ」だからなのだと思っていた。最近ではそれも違うのかもしれないと思っている。
ふとした時にかけられる「マイノリティだね」や「変わっているね」という言葉が良い意味なのか悪い意味なのかわからないけれど、もやっとした。
どう言った時にそう感じるのか聞いてもはっきりとは答えてもらえず。
「こどもすきやんね」という質問に違和感を覚えていたのはいつからだろう。こどもに関わるようになってからだったと思う。
その違和感を「こどもすきだね」と言ってくれた友人にぶつけてみた。「一般的にいってそうみえるからじゃない」ということで、私の違和感は拭われるものではなかった。
数年後また別の友人から「こどもすきって変だよね。大人すきとはいわないのにね。」と言われて同じことを考えている人がいるのだと安心した。
私は常々他人から濁った反応が返ってきたことを考えることをやめるようにしている。
マイノリティが怖いからだ。
けれど私は考えてしまう。
「私はなぜこどもすきということに違和感を覚えてしまうのか」だ。
意思を持った生命体として認識しているので、嫌いな子もいれば、好きな子もいる。
意思を持った生命体として認識しているか否かという仮定を置こう。
もしかすれば、犬好きと言われることに違和感があるひともいるかもしれない。
うちの子は好きだけど、ほかの子はそんなに。
私は彼ら彼女たちを誰よりも個人として尊重したいという思いがあるので、「こども好き」に違和感があるのかもしれない。
一般論やカテゴライズに苦しめられていた時期があるからではないか。
しかしカテゴライズの中にも所属したいものあれば、そうでないものもある。
その差は一体何か。
ある程度カテゴライズしたうえで分析するのは割ることではない。相手の行動を見通して、動くことができるのもメリットである。
マイノリティであることが自分の「生きづらさ」の原因であると思い込んでいた。
だから私はそのカテゴライズを嫌った。
何が「マイノリティ」なのか、なにが「変わっている」のか、私には当然自覚のないままに他人にジャッジされていく。
わからないままの私を置いて。