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その両手

「三辺部長」
 すずは思い切って声をかけることにした。
「どうして先輩はいつもひまわり、の絵を見ているんですか?」

 同じ美術部で三年生の三辺はずっと前からすずの思い人。絵を描いている時以外はぼうっとしているし、普段は誰に対してもそっけないけど、ときどき優しい。ラーメンおごってくれたり、お土産にイニシャル入りのネームプレートをくれたり。
 すずは一年生の時に思い切って一年上の三辺に告白をしたのだが、うまくかわされてしまった。それからも三辺の態度は何ら変わらない。二年に進級しても、どうにもあきらめきれないすずは、ふられたあとでも三辺のことをずっと見ていた。そうして気づいたことは、三辺がひまわりの絵を見ていることだ。誰も指摘しないけど、三辺は頻繁にひまわりの絵を眺めている。出入り口から一番遠い隅の定位置で、デッサンの途中でも色塗りしながらでも、三辺はひまわりのほうを見ている。
 ひまわりの絵。これはすずより二年上の、小夜子先輩の描いた絵。小夜子は前部長である野山先輩の彼女。この春ふたりそろってめでたく同じ大学に合格し、仲良く電車通学しているらしい、というところまで噂で聞いた。
 そんな小夜子先輩が、二年のときの夏に描いたのがひまわりの油絵。F50号キャンバスを使っていて、かなりの意欲作。小夜子が卒業した今も、それは美術部室の隅においてある。その部屋の奥の一角はちょっとおしゃれな画廊風で、ひまわりの他にも大作がいくつかそのまま飾られている。三辺が入部してすぐ描いたらしい、赤一色の油絵もあった。そこに丸椅子を置いて、三辺はたった今も定位置についていた。
「そうだな」
 そのいつもの場所から三辺が、すずの方すずの質問に対してきちんと向いて言う。
 三辺は、両肘を膝に付けて、組んだ両手をあごにのせる。
 無口な三辺がこんな他愛もない質問に返事をするのは珍しいことだった。
「ひまわり、の向こうに何が見えるかなと思って。それで見ているんだよ」
「えー、何も見えませんよ」
「どうやら俺がいるんだよ」
 三辺は時々突拍子もないことを言う。
 すずは三辺の言葉を真に受けて、ひまわりの絵をよく見た。
 キャンバスには一面のひまわり。そして制服姿の女の子の後ろ姿。
 たくさんのひまわりを前にして膝をついてそれを眺める女の子。
 ひまわりの向こうに?一面にびっしりと描かれているのに、向こうにあるものなんて判るだろうか。でも、すずはせっかく持つことのできた、三辺との会話の時間を終わらせたくなくて、思いを巡らせる。
「それって、三辺先輩が三年になってから、眼鏡止めてコンタクトにしたことと何か関係あります?」
 すずがそう言ったとき、びくっと三辺の組んだ手がふるえた。でもそのまま三辺は話を続ける。
「眼鏡…そうだな。聞くか?眼鏡の顔が好きだという女の話」
 それから三辺はすずに短い話をした。
 眼鏡をかけた男の顔そのものが好きな、珍しい女がいた。趣味で、眼鏡の男をスケッチブックに落書きしていたんだ。
 でも彼女が恋愛対象として好きなのはその男でなく、あくまで眼鏡をかけた顔のことだという。だから彼女のつきあう男に眼鏡はない。
 そこまで三辺が話したところで、すずは言う。
「それってヘンじゃないですかね?だって眼鏡をかけた顔が好きなんでしょう。彼氏なんて出来たら、ずっと顔を見てられるじゃないですか。その顔に眼鏡がないなんて」
 まだ彼氏が出来たことのないすずにはよく判らない。彼氏は顔で選ぶものではないからそうなるの? でも眼鏡の顔が好きなら、眼鏡の顔でありながら性格も良くて趣味の合う人を探しそうなものだけれど。
「それで先輩?その彼女はどうなったんですか」
「おしまいだよ。彼女は眼鏡の顔が好きだけれど、眼鏡をかけていない男と結婚して幸せになっておしまい」
「つまんないですね」「なにが?」
「それって、よくあるドラマチックな展開としては、最後に本当の愛に気づいたとかって、眼鏡かけてない彼氏をぽーんと振ってから眼鏡の顔の男のとこに戻ってきませんかね」
 すずはそこまで言って、思わず口を手で押さえる。
 ひまわりを描いた小夜子先輩。その彼氏は眼鏡のない人。
 でもふたりはすずの知っている限り、ずっと仲良かったはず。
 もしかしたら三辺先輩の横恋慕なのかな。三辺先輩は小夜子先輩をいつからかずっと好きで。
 でも小夜子先輩は野山先輩の彼女で
 だからいつか小夜子先輩が、眼鏡の顔の三辺先輩のもとにくるまで、ひまわりをずっと見て。
 そんなの不毛すぎない? 三辺先輩は悲しくないかしら。
 すずはそう考えて、思わず両手を前に、三辺の方に差し向ける。
 いつものすずにしては大胆な行動だった。でもすずは身体の奥の何かに突き動かされるようにそうした。
「三辺先輩」とすずがかしこまって言う。三辺はすずのほうに向き直り、あごの下の両手を膝にだらんとたらしてすずの言葉を待った。
 すずはゆっくり深呼吸。
「あの、私は眼鏡があってもなくても、三辺先輩のことが好きですよ。そろそろ振り向いてもらえませんか。私、ずっと待ってるんですから」
 恥ずかしさをこらえながらも、すずはいっきにそこまで言った。言った後、顔から火が出そうみたいに熱かった。
 でも両手はそのままに向けておいた。三辺が寂しそうに見えたから。今だけじゃない、三辺はひまわりの絵の前でずっと寂しそうだったから、すずはそうすることにしたのだった。
 三辺は、すずの言葉と態度に思わずふっと笑った。そして
「そうだな」と言って、すずの両手を取り、そのまま自分の目の前でぱちんと鳴らした。そして手のひらを合わせたままのすずの手を、両手で包み込むように握った。
「み、三辺先輩」
 いつもクールな先輩が自分の手を握るなんて?と、すずはびっくりする。
「お前といるといろいろなことを忘れられそうだな。それに絵の指導のしがいもあるし」
 すずの絵の仕上げが遅いことは、美術部内で周知の事実だった。
 三辺の言葉の一つ一つが、嬉しくて恥ずかしくて、すずはまともに三辺の顔が見られない。思わず三辺から手を離し、そばにあった自分の画材道具入れを持ち上げて机に置く。
「ほら先輩。私ね、前に先輩に貰ったお土産のイニシャルプレートをお守りにしてるんですよ」
 すずはそれを画材道具入れのネームプレートにしている。
「先輩みたいに絵が上手になりたくて」
 三辺は、プレートにあるSの木彫りの字をちらりと見た。
「こんなものまだ持ってたのか。もっと良いものをまたいつでも買ってやるから」
「これ、貰った時からずっと私の宝物です。でも」
 すずはそこでちょっとだけ間をおいて、言った。
「今日、先輩が私の両手をとってくれたこと。そのことが今はいちばん大事です。三辺先輩、ありがとう」
 三辺はゆっくりうなずいた。


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真亜弥
小1の時に小説家になりたいと夢みて早35年。創作から暫く遠ざかって居ましたが、或るきっかけで少しずつ夢に近づく為に頑張って居ます。等身大の判り易い文章を心がけて居ます。