金魚姫

「知ってるか? 金魚の記憶力ってさ」
「なに?」
 そこは団体様専用の広いカラオケルーム、歌い疲れて部屋の隅の水槽の前で赤く光る、泳ぐ魚に見とれていた夕姫(ゆうき)に、そう声をかけたのは一つ上の先輩の高人(たかと)
あれもこれも歌い飽きた、聞き飽きた。でも周りは未だに大音量、今度はアニメソング。
「お前と一緒だよ。金魚頭。たった3秒なんだ」
「え?」
 一瞬それが何を意味するのか判らなかった夕姫を見て、高人は時間差で笑い出す。
「・・・あっ。そんな・・・ひどーい」
 少し遅れて、夕姫がやっと高人に莫迦にされたことに気づいた頃には、彼はもうマイクを握り、次の曲。
 はぁ。ため息。こぉんな莫迦にされてるようじゃ駄目だよね。
「しっかし、明日から夏合宿だってのに、こんな遅くまでみんな、いいのかね〜」
 今トイレから戻ってきた朱音(あかね)が言った。そう今日は、明日からの夏合宿の前夜祭とか言って、夜七時から部員みんなでさんざん飲み食いの一次会。二次会はいつものバー。そしてカラオケの三次会は三時まで、がうちの部の昔からのお約束らしい。
「いいんじゃないの? 行きのバスの中、きっとみんな爆睡。それって静かでいいわよ〜」と志珠(しず)がカンパリオレンジを持ってやってきた。
「それにしても、夕姫、心を決めたのね」と志珠。
「なにが?」って朱音が聞く。「知ってるよね? 合宿って海の近くのロッジで泊まるのよ?そして合宿最終日には遠泳大会があるって」
 それは知ってる・・・判ってるの。それでもこの夏を逃すと清香(さやか)先輩に好きな人をとられちゃう気がするの。こんな訳で、夕姫はカナヅチ16年のキャリアを持って、この何でもありスポーツサークルの、夏合宿初参加を決めたのだった。
「そうねー、高人先輩、最近特に狙われてるもんね。清香先輩、かなり積極的じゃない?」
「まあ何にしても、誰が誘っても水に入るのを断り続けたこの夕姫を、泳ぐ気にさせた先輩は偉いねー。やっぱ恋は偉大だわ」
「これで泳げるようになったら、一緒に流れるプールも行けるねー」
 口々に友人たちは半分イヤミを口にする。いいんだ、いいんだもん。夕姫は「成せば成る、成さねば成らぬ、何事も」を座右の銘とした。いやこれはほんと、つい最近のことだけど。
 そしてカラオケはやっぱり3時にフェードアウト。部員はほとんど皆が最後まで残っていた。「おつかれー、また明日ね」「集合時間!遅れないでよ」口々にそう言って皆、帰り道を急ぐ。夕姫もなんとか、一人暮らしのアパートにたどりつく。そしてすぐベッドに潜り込みたいところを、疲れた体にむちうって合宿の荷造りをした。「こんなもんかな」ふくらんだねずみ色のスポーツバッグを、ぽんぽんとたたいて、準備完了。目覚ましセットもちろん忘れず、明日の出発時間に間に合うことを信じて眠りにつく。買ったばかりの、とっておきのセパレートの水着を忘れず荷物に入れて。

 明くる日は、もうこれは夏合宿日和!とでもいうような、これでもかとばかりの晴天。これも皆の日頃の行いが良いからな、と部長は満足そうだった。夕姫も志珠も朱音も、集合時間にちゃんと間に合い、ほっと胸をなで下ろす。朝の目覚まし、止めていつものくせで二度寝せずにほんっと良かった。夕姫は笑いながら話した。
 そしてバスが動き出す前から、うとうとしている部員も見える。バスの道中のカラオケとか、イントロドンとか考えた企画係が、これじゃあ意味がないわとどこかでつぶやいているのが聞こえたのが、最後。夕姫も志珠の隣の席で、すぐに夢の中。企画係もふてくされて、道中を寝て過ごすことに決めたようだった。 
 案の定、そのまま皆が眠っている内にバスは目的地に到着し、部長の「あれ向こう見ろよ。海だぜ」という声で皆が目が覚める。
「えーもう着いたの?」眠り足りない人の声も聞こえる。
「何言ってるんだ。もう昼なんだから、太陽が惜しい。昼食のあとひとやすみしたら、水着に着替えてビーチに集合〜」と部長が言う。夏合宿の始まりだ。
 今回合宿とは言いつつ、ここは半分遊びのサークル。泳ぎもテキトーでいいや、なんて夕姫は思っていたら、驚くことに高人は元水泳部だった。「いいか、海での正しい泳ぎ方を見せてやる」なんて言って、他の部員に対するやり方を見ていたら、どうしても妥協を許さない指導っぷり。
 ちょっと離れたところで普段着のままの夕姫と水着姿の朱音と志珠。
「ただでさえ、いろいろ莫迦にされて印象悪いのにー。これで泳げない醜態さらしたらもっと嫌われるよぅ」夕姫が、朱音と志珠に愚痴ると、
「じゃあ奥の手使う? 女の子にはあるじゃん、特有の」と、提案したのは志珠。
 ぐっと夕姫は言葉に詰まる。えとえと…でも…。先輩に嘘をつくってことじゃない? 黙ってしまった夕姫に、志珠が決めつけて言う。
「それで決まり! そのかわり口止め料は、持ってきた英訳の宿題お願いね。夕姫にまかせたからね」
「そう〜私の分もね」朱音が他人事だと思って笑う。
 夕姫があっけにとられているうちに、二人はさっそく、おニューの水着で白い砂浜に飛び出していった。
 あ〜ついてないのかなー。よりによって好きな人が元水泳部だなんて。
そして私はカナヅチだなんて。
 向こうの波打ち際で、高人がちらりと夕姫の方を見るが、その近くには志珠と朱音。彼女らが高人にさっきの「嘘」を伝えたらしく、彼がぷいとそっぽを向いたのが夕姫には判った。
 ほんとのことを言う、勇気が、出たら。・・・・・・出ないか。
 はぁ。ため息ばっかついててもしょうがないわ。夕姫はなんだかむなしくなって、海の見えないところに行くことにした。そう、さっきの約束。三人分の夏の宿題を抱えて。リーダーの英訳は、奇しくも人魚姫。タイムリーすぎて涙が出ちゃう。
 夕姫は、ロッジの近くにある、バーベキュー広場の椅子に腰を下ろした。ここには幸い、椅子と机がある。
 辞書とほとんど首っ引きで、夕姫は黙々と一人で英訳を続ける。こんな状況。ただでさえ、このくらーい残酷なグリム童話。今たった一人の自分と重なって、夕姫はひどくブルーに落ち込む。
「はぁむくわれないわ」独り言。これは人魚姫への同情の台詞、そしてちょっとは自分への慰めの台詞。
 海の泡となって消えました、なんて。
 足は声と引き換え、なんて意を決して逢いに行ってみたら、片恋の相手、王子様には別の、いいひと、がいました。自分の想いを伝えることは出来ませんでした、なーんて。ただのふんだりけったりよ。想っていても伝えられない。声のない人魚姫には、想いを伝える術がない。
 でもそばにいるだけでいいの? それでいいの?
 夕姫はその宿題の英訳も途中止めで、一人で考え事に没頭する。
 人魚姫の生き方について、そして自分の恋について。
 伝えられなくていいの、そばにいればいいの。それってほんとう?
 それがほんとの私の気持ちなの? 戦う前からライバルに負けて。それでもいいの?
・・・・・・駄目なのよ。
 何度思い直してもこの恋は捨てられない。
 ひとめ逢ったその日から、なんてお話の中だけだと思ってた。自分がこんなに、知らない誰か、を必要とするなんて思わなかった。
 人魚姫にはなりたくないの。彼女みたいには。
 幸い、私には、足だって声だってあるじゃない。
 30分くらいぼうっと考えていただろうか。
 何かに取り付かれたかのように、夕姫は着替えの荷物をかかえて更衣室へ。そしてとっておきの水着に着替える。
 そこはすでに少し日の陰る、夕暮れの海。ほとんどの部員はもうロッジに引き返したらしく、浅瀬の海に残るのは知っている顔がちらほらだった。
「あれー夕姫?」と志珠。浅瀬で遊ぶそんな志珠と朱音とにちょっと離れて・・・・・・・少し向こうに見える砂の小島。波がくるたびに高人に抱き着いているのは、清香だった。高人のいるところまでは、泳いで行かないと夕姫にはきっと行き着くことが出来ない。ここは勇気をふりしぼって泳がなければ。
 夕姫、ほんとに大丈夫?と朱音と志珠が心配そうに声をかける。
「夕姫、今日は海に入れない日じゃなかったのか?」夕姫の来たことに気づいたらしく、高人の声が聞こえた。夕姫の足が、だんだん立たなくなる。海の底の砂に足をとられそうになる。やっぱり駄目。浮かないよ、私。
 やっぱり私は人魚姫なのかな。伝えられないのかな。
 王子さま、には別の女、がいてさ。
 ぶくぶく沈む。
 ばしゃんって、誰か今飛び込んだ?
「しっかりしろよー」なんてあれは、誰?
 気づくと夕姫は、砂浜に寝かされていた。
「大丈夫? 夕姫、海水かなり飲んだんじゃないの?」志珠がのぞきこむ。「びっくりしたよー。急に泳ぎ出すから。どしたの、夕姫?」朱音が言う。
清香先輩はちょっと離れたところで、他の先輩と話をしているみたいだ。高い声が寝転んだままの夕姫にも聞こえる。
「夕姫お前、何かしらないけど無茶するなよ」夕姫の肩をたたきながら、高人が言った。
「だって私こんな」
「泳げないなら泳げないと言えばいいんだよ。泳げない金魚にも、ちゃんと教えてやるから、な? 無茶するな」
 やっぱり金魚でしかないんだ。
 高人先輩にとって私って。
「何だよ、お前泣くなよ。俺が泣かしたみたいじゃないか」
「・・・・・わたし、こんな金魚頭でも」
「いいから。しゃべるな。海でおぼれかけたんだから今気持ち悪いんじゃないのか?」
 その時ロッジのほうから部長の通る声がした。
「おーい、晩飯のバーベキューの準備、みんな付き合えー」 

「お前ら行ってこいよ。俺はもうちょっとこいつについてるわ」
 と高人。促されてしぶしぶ清香先輩も動く。
 「・・・・・・あのね聞いてくれたら」
 そこは一瞬、高人と夕姫のほかに誰もいなくなった、夕焼けの砂浜。
「たとえ3秒で忘れてしまうとしても」
 ゆっくり夕姫は身体を起こす。ちょっとよろめきながらも砂に手を突いて、座ったままで自分の身体を支える。
「金魚みたいに、たとえ3秒で忘れてしまうとしても、わたしはきっと3秒ごとに貴方に恋をするから、だから・・・・・・」
 そこで言葉を詰まらせた夕姫に、高人は答える。
「莫迦だな。そんなこと言うために泳げない海に入ってきたのか」
「先輩知って?」「知ってたよ。泳げないことも、お前の気持ちも。だからもうこんな無理はするな。しないでいいから、大丈夫だから」
 夕姫はゆっくりうなずいた。
 暑い夏はまだ始まったばかりだった。



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真亜弥
小1の時に小説家になりたいと夢みて早35年。創作から暫く遠ざかって居ましたが、或るきっかけで少しずつ夢に近づく為に頑張って居ます。等身大の判り易い文章を心がけて居ます。