土偶は顔じゃないのよ、ボディなの|土偶のおはなし
縄文時代の土偶で一番有名と言われているのは「遮光器土偶」、ユニークな遮光器みたいな目が印象的ですよね。
「遮光器土偶」は縄文時代晩期(今から約3,200年前)の縄文時代の終わり頃に作られました。
では土偶の出現は、縄文時代のいつ頃だったのでしょうか。
その起源は「遮光器土偶」が作られる1万年以上も遡った縄文時代草創期にありました。
今回はその最も古い土偶のおはなしです。
日本最古の2つの土偶
日本最古の土偶と言われているのは、縄文時代草創期(約12,000年前)の2体の土偶です。
縄文土器が出現したのが約16,500年前、それからかなりの時を経てこれらの土偶が出現しました。
この頃の日本列島は氷河期が終わり少しづつ温暖な気候となって、人々が竪穴住居で暮らすようになり、小さな集落が作り始められた頃です。
最古の土偶の1つは、このトルソーのような高さ3,1㎝の小さな土偶。
滋賀県東近江市相谷熊原遺跡の竪穴住居跡から見つかりました。
支えが無くても自立でき、表面は滑らかできれいな肌、粒子の細かい土を用いて丁寧に作られているようです。
もう1体は、豊かな乳房と締まったウエストを持つ、高さ6.8cmの頭部と上半身からなる土偶です。
三重県松阪市粥見井尻遺跡の竪穴住居跡から発見されました。
2つの土偶の共通点は
何といっても女性を表していると思われる美しいシルエット。
この後に続く多くの土偶と同じように、女性の身体に命が宿ることを神秘的なイメージと重ね合わせていたようです。
体部を重んじて作られたことは、頭部の作りを見てもわかります。
1体はあえて体だけの土偶であり、もう1体は頭の形だけを作り、そこへは目鼻口などの表情をつけない造形。共通するのは頭部の造形には重きを置いていないことです。
それには、人間と同じような目鼻口で〝顔の表情〟を作ることは、土偶という祈りための人形には、相応しくないと思っていたのかもしれません。敢えて〝人間らしくならない〟ための造作であった可能性も考えられるようです。
これは、手足が作られていないことにも当てはまるかもしれませんね。
この〝頭部がない、あったとしても目鼻口は作らない、またはごく簡単に作る〟という傾向はその後も長く続きます。
やがて土偶が各地で盛んに作られるようになる縄文時代中期(今から約5,000年)ごろになると、ようやく顔の作りに力が注がれ、様々な顔の表情・頭の形の土偶が出現するのです。
大きく違っているところ
相谷熊原遺跡の土偶はトルソーのような自立した形、
一方で、粥見井尻遺跡の土偶は、板状で自立することができません。
土偶にはこのように〝自立する土偶〟と〝自立しない土偶〟があります。
この相谷熊原遺跡の土偶などを別にすると、縄文時代中期ごろまでに作られた土偶は〝自立しない土偶〟が殆どでした。
各地で盛んに土偶が作られるようになると、〝自立する土偶〟が多く作られるようになりました。
その理由としては〝大勢が集まる祭祀などで、皆が遠くからでも見みることができるように立たせた〟と考えられています。
まだ人口が多くなかった縄文時代草創期(約12,000年前)にこのような土偶が作られたのには、また違った意味が込められていたのかもしれません。
この2つの土偶が作られた滋賀県と三重県の遺跡は、直線距離にすると約60㎞の場所にあります。
土偶があまり多く出土しない地域で、この2体の最古の土偶が発見されたことに驚きますが、今のところこの2体の土偶に関係性は見られないそうです。
共通すること、違うことがありますが、
どちらもボディを重視したことには間違いがないようです。
長い土偶の歴史から見ると、〝ユニーク〟や〝かわいい〟と言われるの遮光器土偶はニューフェースと言えるのかもしれませんね。
*参考図書
開館25周年記念土偶展 長野県立歴史館
土偶のリアル 譽田亜紀子 山川出版社
縄文土偶ガイドブック 三上徹也 新泉社
最後までお読みくださり有難うございました☆彡