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続・日本列島をもっと知りたくなる|全ては縄文土器の発明から始まった

その土地の旬の食材を毎日の献立に生かす…
「和食」は世界でも稀にみる気候風土の日本列島の恵みにありました。
そしてその始まりは「縄文土器の誕生」と共に始まったのです。


縄文土器は世紀の大発明だった

縄文土器と聞くと、鶏冠とさかのような装飾がついた火焔型土器かえんがたどきを真っ先に思い浮べる人が多いかもしれませんね。
それらは1万年以上続いた縄文時代が成熟した頃に作られたもので、その始まりの頃は模様のないシンプルな土器が殆どでした。

縄文時代中期頃の火焔型土器 / 新潟県立歴史博物館

日本で初めて土器が作られたのは、約16500年前の旧石器時代の終わり。
日本列島はそれまでの氷期が終わろうした時期で、大型のマンモスなどは姿を消しつつありました。
その後気温は徐々に温暖化し、シカやイノシシなどの獣が増え、森にはドングリやトチの実などの植物が豊富になります。
人々の生活は、食料確保のために常に大型動物を追うことから、身近で食料を調達するようことへと変化していきました。

そこに登場したのが「縄文土器」です。
土で出来た焼き物である土器は、水を汲み貯めたり、硬い木の実や獣の肉を柔らかく煮たり、それまでにあった草木や石の器などでは不可能であったことを、一気に可能にしてくれた魔法の道具だったのです。

日本列島の北から南まで、当初は1つの集落で僅かな数が作られるだけでしたが、それは次第に広まり、数千年をかけて爆発的にその数は増えたのです。

国立歴史民俗博物館

日本初のブランド品は狩猟道具⁈

温暖化で獣の種類が増えたことは「狩りの道具の進化」に結びつきました。

硬い石を鋭く加工した「石器」を木の棒にくくりつけ作られ「突きやり」、さらに「弓矢」が登場しました。

「弓矢」によって、遠くにいる小動物も捕ることができるようになり、獲物の種類や数は画期的に多くなったと考えられています。

国立歴史民俗博物館

そして、やりや弓矢の先に付ける「石器」も、より鋭く、切れ味がよいものへと進化していきます。

もともとは地元の石で作っていた「石器」は、硬く断面が鋭い「黒曜石」*などが用いられるようになります。

「黒曜石」は各地の産地から物々交換のような形で手に入れたと考えられ、物を通してネットワークが築かれていきました。

日本初のブランド品とも言われる「黒曜石」
黒曜石の産地は、山梨・長野、群馬、北陸地方などがあり、原石だけでなく、ナイフに加工するなど「製品化」されたもの各地へと運ばれました。中には伊豆七島の神津島のものが、海を越えて運ばれた痕跡も確認されています。

釈迦堂遺跡博物館

保存食作りで心身共に健康に

これは縄文時代の始めの頃の宮崎県の集落のジオラマです。
左端で子どもが穴を見下ろしているのが分かるでしょうか。

縄文時代草創期 / 国立歴史博物館

この穴は手前の大きな「煙道えんどう付きの炉穴ろあな」の「煙道えんどう」で、炉穴ろあなで炊いた火の煙の出口であったようです。

屋外に作られた「煙道えんどう付きの炉穴ろあな」では、掘った穴に土器を置いて煮炊きをしたり、魚や肉などを吊り下げて燻製などを造っていたと考えられています。

宮崎県王子山遺跡の様子

このように縄文時代の初めの頃には「保存食作り」が始まっていたと推定されています。
「保存食」は、悪天候で狩猟が出来ない時などの不測の事態に対応し、さらに食料確保に費やす時間も減らしたと考えられます。

縄文土器が生活を変えた

「縄文土器」の発明は、苦みのあるドングリを灰汁抜きをして食べるなど、今までは食べられなかったものも食材へと変えました。

また硬い肉や干物を柔らかく煮るなど、食材を余すことなく利用できるようになり、一度に多くの食料を手に入れても腐らすことが減ったと想像できるようです。

より効率よく食材を手に入れ、ストックを作る。
そうして出来た時間や心の余裕が、その後の縄文土器や土偶を作る豊かな縄文文化へと繋がっていったと考えられます。

「その日暮らしではない」縄文人の新しい生活スタイルは、日本列島の温暖化と「縄文土器」によって作られたようです。

参考図書
土から土器ができるまで 望月昭秀/山内崇嗣 

最後までお読みくださりありがとうございました。


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