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弥生時代がなかった北海道 知られざる「オホーツク文化」とは?

本州とは全く違う道を歩んできた北海道。
北海道の古代史が、縄文時代→弥生時代→古墳時代ではなかったという確かな流れを教えてくれるのが、
オホーツク文化 -あなたの知らない古代- (横浜ユーラシア文化館)です。

北海道以外ではあまり馴染みのないと思われる「オホーツク文化」とは、いったいどんなものであったのか、極寒の地での生活や縄文時代との関係など、多くの出土品とともに明らかになったことを知ることができます。


オホーツク文化とは

本州で農耕を基盤とする文化が営まれた弥生時代以降も、北海道では狩猟、採集の文化が続きました。
およそ1世紀~6世紀を続縄文時代、それに続く7世紀頃から13世紀頃までを擦文時代と設定しています。そして北海道の独自文化と聞いてまず思い浮かぶ「アイヌ文化」へと続きます。
弥生時代、古墳時代がなかったことから、今までも縄文文化と「アイヌ文化」との関係があらゆる方面で取り出されていましたが、そこに何があるかは分かっていませんでした。

縄文、続縄文時代から「アイヌ文化」へと至る間に、当然ながら生活様式をはじめとする文化は大きく変化しています。
そこに大きく関わったのがオホーツク文化でした。

実は北海道では縄文時代から「アイヌ文化」との長い期間、文化の担い手が大きく変わることはなかったのです。
「異民族」の文化が大陸から南下し流入した後も、縄文時代から続く文化と,「異民族」の文化が併存していた時期があったのです。
この「異民族」の文化がオホーツク文化です。

では何故、大陸の異民族は北海道まで南下してきたか?
一説には、彼らと深い関係にあった大陸極東の靺鞨系まっかつけい文化が、当時の大陸の大帝国〝唐〟への貢ものを求めて来たというのです。 
遺跡からは数多くの青銅製品が出土していることから、その対価であったのではないかと考えられています。

オホーツク文化の範囲は?

オホーツク文化は5世紀~12世紀まで(北海道では9世紀まで)の間、アムール河口部~サハリン、北海道のオホーツク海沿岸、千島列島に至る広大な地域に広がりました。おもしろい事にずっと西にとんだ奥尻島にも及びました。
大陸からやってきた文化の最前線がこれらの地域であったと言えるのです。

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「オホーツク文化」図録より抜粋

オホーツク文化の遺跡は、現在、北海道全体で200か所が確認されています。
ほぼ全てが海岸線1km以内に立地していて、海と密接した生活が営まれていたことがわかっています。
河川の近くなどの例もありますが、知床半島、利尻島、礼文島など平坦地が少ない地域や、小さな島や高い崖の上などの周囲から孤立した高台にも集落が作られていました。

オホーツク文化は土器の形式に基づいて、前期・中期・後期の三時期に区分されることが多く、十和田式、刻文系土器、沈線文系土器、貼付文系土器などがそれぞれの区分に対応されています。
また広域に及ぶオホーツク文化は、文化、時代区分のとらえ方は一応でなく、それには様々な意見があるそうです。

オホーツク文化が展開されたこの時期、東北北部の蝦夷えみしを支配地に取り込もうとした本州の古代王権の政策が進められていました。
この影響が北海道にも及び、文化の変容があったと考えられています。

この時期の北海道は、大陸からの影響が北から、南から、と交錯する、稀に見る国際色豊かな時代であったようです。

オホーツク文化の生活

人々は竪穴住居に複数の家族で暮らしていました。竪穴住居の平面は六角形のものが多く、一辺が10~15mもある大型の住宅です。
家の中央には炉があり、それを囲んで凹字型に粘土が貼られて土間の役割をしていたようです。
祭祀のための祭壇(ヒグマの頭骨を積みあげた〝骨塚〟と言われるもの)などの共用スペースと、壁際に設けられた収納や就寝のための個別スペースがありました。

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大小の大きさの土器が数個づつありますが、これらはそれぞれの家族が大きさの違う土器をセットで所有していたと思われるものです。
家族という小さな集団が確立していて、その家族が複数集まって大型住居で同居する生活のあり方を示すものと言えます。

竪穴住居は、住んだ後に故意に燃やされるものも多いそうです。
これには「アイヌ文化」に見られる〝家送り〟儀式との関連性が指摘されています。
〝家送り〟とは、〝死者にあの世で住む家を送る〟儀式で住んでいた家を焼き払うものです。

食に関しては、もちろん海の生き物が主な食料でした。
住居の近くに作られた貝塚からは、魚介類、アザラシやオットセイ、トド、クジラなどの海獣の骨も多く見つかっています。
地上の食料としては、エゾシカ、ウサギ、ヒグマなどが狩猟されていました。これらは、食料としてだけではなく、皮革や骨,油脂などとして利用されていました。

ヒグマは、猟の困難さや危険性に比べて食料や毛皮の利用価値が低いため、儀礼的な狩猟であった可能性があるそうです。

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土器に装飾された〝ヒグマ〟
この〝愛らしさ〟からは、食料であったようには感じられませんね。


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こちらは〝水鳥〟の貼付文様のある土器。どこかコミカルで大きくデフォルメされた表現がユニークです。


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石製の〝ラッコ〟です。
石に最小限の加工を加えただけの造形物は、希少な出土品の一つです。


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こちらの叉状さじょう角製品(シカなどの角製品)は〝クマ彫刻付き指揮棒〟。
指揮棒は儀礼に用いられた道具で、このようにクマや海獣などが浮き彫り状に表現されています。中には船を表現したものもあるとか。


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大型の海獣の牙作られた〝牙製婦人像〟は、オホーツク人の信仰や儀礼に関わる重要なものであったと考えられています。
北方諸民族のシャーマンを表したとする説、オホーツク人の女性だという説、中国からの仏像の変容だという説があるそうです。

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日本の考古学では、弥生時代以降に大陸から渡来人がやってきて稲作をはじめとする文化をもたらしたとういう説が一般的です。
ここに、「異民族」が〝北回りルート〟で南下し大陸から文化が伝えたことが確かになったことは、注目すべきことですね。

遠い北の海、オホーツク海沿岸でいきた人々の文化は、その〝厳しい〟風土を巧みに生かし、独自の道を歩んだ開拓者精神に溢れたものでした。
まだまだ解明されていない「アイヌ文化」との共通性など、今後の研究に期待したいです。

最後まで読んでいただき有難うございました☆彡


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