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人類学者の宝物缶/「樺太紀行~徳丸の人類学者と樺太の北方諸民族~」展から

明治後期~昭和初期の樺太を調査した人類学者・石田収蔵を紹介する企画展が開催されています。

樺太またはサハリン。
言わずと知れた極寒の地は、もともとはいくつもの民族が暮らす島でした。
現在では島全土が事実上ロシアに支配されていますが、1905年~1945年(明治38年~昭和20年)の40年間は、北緯50度線を境に南半分を日本が領有していました。

東京大学で学び、板橋区で暮らした人類学者・石田収蔵は、この期間に5回樺太へ渡り、先住民族のうち、樺太アイヌ・ウイルタ・ニヴフの風俗の調査を行い、記録を残し様々なモノを持ち帰りました。

これは日本語、ニヴフ語・ウイルタ語の比較表。
左の日本語に対比したカタカナは、聞いたこともないコトバが並んでいます。

当時は貴重であったカメラに収めた写真は、一般向けの葉書セットとして残されました。

アイヌ風俗写真のエハカキ 写真5枚組
1907年(明治40年)の第1回の調査では、アイヌの象徴的な姿が。

1909年(明治42年)の第2回からは、庶民の様々な生活が。

ミミズク形木偶がたでぐ・1912年(明治45年)‥病気や災害のお守りとされ、シャーマンの占いによって形や材料が決められる‥

トナカイ等型紙(切り抜き)・1907年(明治40年)‥トナカイ、テン、渦巻文様からなる型紙は土産品か‥

トナカイ皮製財布‥ウルタイ族のもので、土産品として売られていた物を購入したか‥

樺太…今でも近くて遠い場所の一つ。
1世紀以上も前のこと。想像するよりもずっと困難な旅であったと思われます。
未開の地へと向かう人類学者とは、どんな人であったのでしょうか?

彼の野帳に手書きのメモやイラストが残されています。樺太の信仰関係の道具などがラフに描かれています。なんとも可愛らしい…。

そして、樺太とは関係ないものも。
東京大学の人類学教室で使われていたブリキ製の標本箱に入っているのは、ニセモノの遮光器土偶。一方で、勾玉と頁岩製ナイフは青森県出土の本物。
大切な宝物入れ…のようですね。

彼の「土偶ノート」には、この遮光器土偶と共に、他の数々の土偶が描かれています。どれも愛らしく…。

恐らくこの遮光器土偶はニセモノとわかったうえで、こうしてスケッチを描き、大事に缶に納めていたのではないでしょうか。
と、言うのも、彼が生まれたのは世界遺産の縄文遺跡「大湯環状列石おおゆかんじょうれっせき」のある秋田県鹿角市。

その後転居し中学卒業までは、やはり世界遺産の縄文遺跡「是川これかわ遺跡」のある青森県八戸市で過ごしてます。

今では世界遺産として整備されている遺跡ですが、何十年か前までは、地元の人が土の中から縄文土器の欠片を手にすることが度々あったといいます。

身近に縄文がある環境で育ち、そして人類学へと進んだ学者には、きっと本物を見極める目があったはず。

缶に納められた土偶やスッケチは、樺太を果敢に探索した人類学者の違う一面…遺物をいと惜しむ素顔を見せてくれているようです。

©2025 のんてり
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最後までお読みいただき有難うございました☆彡


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