見出し画像

ずっと気になっていた前方後円墳に登った

古墳には入ることができない・・と、私はずっと思いこんでいました。
前方後円墳といえば「仁徳天皇陵」が有名。教科書などの写真でだれもが一度は目にしたことがあると思います。
「仁徳天皇陵」は、最大長約520メートル、最大幅約290メートルにも及ぶ 緑で囲まれた広大で荘厳な雰囲気。
中はどうなっているのか。長年気になっていましたが、立ち入り禁止で外から眺めるしかないというのを聞きあきらめていました。
しかし・・全ての古墳に入れないわけではない、ということを最近ようやく知って早速調べてみると、宮内庁の陵墓は保全のために立ち入り禁止ということでした。立ち入りできないのは、天皇のお墓だからなのですね。

それではそれ以外の前方後円墳へ行こうということで、
早速、山梨県甲府市の甲斐風土器の丘・曽根丘陵公園にある
「甲斐銚子塚古墳」へ。
風土器の丘…という風情を感じるネーミングの広大な公園には、甲斐銚子塚古墳の他に、丸山塚古墳、上の平遺跡、考古博物館、歴史植物園等、古代文化に触れられる施設が多くあります。

「甲斐銚子塚古墳」は、約1700年前の古墳時代の4世紀中頃に造られた
最大長169メートル、前方部幅68メートル、高さ8.5メートル、後円部直径92メートル、高さ15メートルの前方後円墳です。この地方を納めていた首長クラスの墓であると考えられています。

古墳時代は文献の記述がないことから未だに議論されることが多いですが、一般に邪馬台国が倭の統一政権として確立し、その権力を全国に拡大させ始めた時期といわれています。
前方後円墳は、この時代の前期から中期(3世紀後半から5世紀末)に多くが築城されています。

何故?この様な巨大な墓が造られたかは、王の権力を示すため、死者を弔うため、死者が神になってこの世を見守るため、などの諸説がありますが、学術的にも未だ解っていないようです。
いずれにしても、この様な大規模な土木建築には、基本設計から土量の計算や土質の選定、運搬方法、測量、算術等々の高い技術力と、多くの労働力、その労働者を統制させる指揮力、労働者のための食料や工具の調達、材料調達のための道の建設…と、古墳造営プロジェクトが組まれ、それを運営する莫大な財力と強力な権力の存在があったことは間違いありません。(現在においても大変な事業になりますよね。)
・・・「仁徳天皇陵」は、最大2,000人が働き、完成まで15年8か月を要したとも言われています。

「甲斐銚子塚古墳」は邪馬台国のあったと言われている「近畿」または「九州」から遠く離れた山梨県にありますが、この地になぜこのような立派な古墳が築城されたのでしょうか。
それは、山梨県が南北の交通上の大切な地点であったことから、この地方を納めた有力者が古墳を築造できる財力と権力を握ったと推測されます。

古墳の中におさめられていた副葬品の中には、埴輪、青銅鏡、鉄鉾の他に、北陸地方で作られたと思われる「腕輪形石製品」(腕輪の形をした石製品。緑色凝灰石製で産地は北陸、山陰)がありました。
また、逆に山梨県の特産品である水晶が、東北から東海まで広域的に流通されていたこともわかっており、邪馬台国の政治力がこの地方にもおよび、また各地との交もあったと考えられるからです。こういったことから、この山梨の地が、中央政権にとっての交通の要であった可能性が高く、この地方を納めた有力者の力が大きいものになったと考えられているのです。


それでは、そろそろ「甲斐銚子塚古墳」へ行ってみましょう!

緑に覆われた丘の様に見えます。
前方から後円をみたところです。人と比べてみると大きさがなんとなく判るでしょうか。

画像6


今度は反対に、後円から前方を見たところです。
前方と後円の高低差は約6.5メートルあります。
この後円に、死者が弔われていました。
大きな木は、いつ頃からこの景色を見てきたのでしょうか。

画像2


後円頂上から街を見下ろしたところです。
円の周りの豪があった部分は、現在は砂利になっています。
直ぐ近くには家々が迫っています。古墳ファンにとっては絶好の立地ですね。かの昔もこの様に、すぐ近くに生活の営みがあったのでしょうか。

画像7


横から見たところです。
左が後円部分(高さ15メートル)、
右が一段下がった前方部分(高さ8.5メートル)。
前後の高さがこんな違うとは知りませんでした。
因みに、古墳時代の中期~後期に造られた前方後円墳の中には、前方と後円の高さが同じものもあるそうです。

画像7



こちらは「丸山塚古墳」。「銚子塚古墳」のすぐお隣にあります。
直径72メートル、高さ11メートルの円型の円墳です。やはり周りには濠が囲まれていれ、墳丘には埴輪がめぐっていたそうです。
銚子塚古墳の築造から約100年後の、今から約1600年前に築造されたとされています。

画像8



「銚子塚古墳」の出土品
副葬品の埴輪(円筒埴輪、壺形埴輪、朝顔埴輪) 
下記は青銅鏡

画像7

            山梨県考古学博物館常設展図録から

画像8



「前円後方墳」ではないの?

「前方後円墳」という名称は、どこかユニークな感じがします。
江戸時代の学者、蒲生君平(1768年~1813年)が、古墳の研究書「山陵山」で初めて使用したそうです。では、何故?前方後円墳なのか?
私のイメージでは、前円後方墳のほうがしっくりくると思うのですが。
その謎が少しだけ解けました。

上記の横から撮った写真をもう一度見てみましょう。
前方後円墳は、牛車に見立てられていて、
横から見ると、左(後ろ)の円部分の高い所に牛車を操る人が乗り、
右(前)方部分は車で、更にその前方には牛がいて牛車を引いているという図になるそうです。だから前方後円であるということです。
巨大な墓が造られ謎にあるように、被葬者に神になって帰って来てほしいなどの願いを込めて、命名されたのでしょうか。



この日の甲府は30度。薄曇りの蒸し暑い日でした。
昔の人々も私達と同じく、あつい、あついと言いながらこの季節を過ごしたかと思うと、もっとこの時代を知りたくなってきます。
私の古墳ブームはこれからも続きそうです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?