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いい加減俺は俺のやさしさとの付き合い方の決着をつけたい。
やさしさとの付き合い方に手を焼いている。決着をつけるために文字に起こして深く考えてみる。
小学3年生の頃、クラスメイトの男子と些細なことで喧嘩した。
先生に呼び出されて事情を2人で話したところ、腕っぷしの強いクラスメイトは俺に手をあげてしまったことで割と強めに怒られた。ただ俺は武力行使こそ行ってないもの互いの悪いところのせいで始まった喧嘩だと思い、「終わったことだからもういいです。」みたいなことを先生に言った。
それから友達に「〇〇さん(本名)って優しいんやな。」と褒められ、やさしさの正義を学んだ。
あの頃の「やさしさ」なんてとても簡単で信頼できる概念だった。人にどこまでもやさしくあることに何の疑いもなかった。
そうやってなるべく人を許していきながら
中学に進学。14の夏に人生で初めて女の子が自分に好意を持つというイベントを経験する。別に付き合いたくないけど「私とはもう友達のままなの?」と泣くその子の姿があまりに可哀想で期待を煽るようなことを不覚にも言ってしまった。
今思うとこれはあまりやさしさじゃない。
やさしいけどかなり一方的なやさしさだ。
分かってはいるもののこういった「相手を考えて放った言葉が後々相手を傷つける」みたいなミスを繰り返して20歳になった。
かなり遅いがやさしさの絶対的な正義をちゃんと疑い始めたのは割と最近だ。
年を食うにつれて取り巻く環境が複雑化していき人にやさしくするにあたり考えなきゃいけないことが増えた、と言うべきかも。
過度な思いやりで逆に相手によくない結果をもたらす行動を人は「甘やかす」と言う。甘さはいつでもやさしさと似ている。
最近ではこう定義してみている。
その場その場で相手が良い思いをする、傷ついたりしないと言うことを望んで繰り出すのが甘さ。
突き放したり、自分勝手でいることがかえってその人のためになる、みたいなものを含めたより中長期的な結果も見据えたものはやさしさ。
言葉にしてしまえば簡単な話かもしれない。だが果たしてあなたはその場の数秒間のチョイスで毎回甘さを回避することができるだろうか。人を気持ちをよく考え、共感するあまりやさしさに似た甘さを振りまいてしまうことはあるのではないだろうか。
自分のことを「人に甘いけど自分にも甘い」と評してくれた友達がいる。
でもそれにほんのすこしだけ不満が残った。
一見その場しのぎのような後々人を傷つけるような甘さだってこちらとしては人をすごく考えて考えてなってしまった結果なのである。もちろんそこには自分への甘さが伴っているのは否定できないが
比率としては相手の気持ちを考えて〜という要素の方が多い。それは単に「自分にも甘い」で片付けられるものなのかな。
さらに頭を悩ませるのは「甘さは時にやさしさのジャンルに入る」と言う事実だ。
例えるなら前述の小学生時代のエピソードだ。俺(8)は武力行使をした友達を許した。
さっきの甘さとやさしさの定義で言うと、暴力を許してしまっては友達のためにならない。気に入らないことがあると人を小突くみたいなことをまた繰り返すかもしれない。
しかーしそんなことを言っていては人間は失敗からやり直すことが不可能になってしまう。だからこそ許すという救済措置がこの世にある。
これはいわば「やさしさのジャンルに入る甘さ」だ。
この匙加減が難しい。どこまでが良いやさしさでどこまでが悪い甘さなんだろう。
もうなんか色々と言葉に起こしていたら
そもそもなんで自分が人にやさしくありたいのかわからなくなってしまった。
ボランティア活動の一種?自己陶酔?
人によく見られたいだけ?
とにかくちゃんとした俺的私的やさしさガイドラインを作って芯を固めなくては色々悩んで選択できない優柔不断男になってしまう。それならたまに間違えてもびしっと判断できる人でありたい。よく考えたら結局やさしさで救われるのも傷つくのもその相手の感性だ。こんなにいろんな人がいる浮世で的確にやさしくするのは無理だ。
本当に奥が深い。これからやさしさとどう付き合っていけば良いのだろう。わからない。もう踊るしかないね。ぱーりない。
ふとブルーハーツの人にやさしくの歌詞が頭に浮かぶ。
やさしさだけじゃ 人は愛せないから
慰めてあげられない
期待はずれの 言葉を言う時に
心の中では ガンバレって言っている
聞こえてほしい あなたにもガンバレ!
とりあえず人を愛することは前提にしようと思った。ぱーりない。