それは目的なのか、結果なのか?
先日は、私が主宰しているAtelier&Gallery shop で、とある映画の自主上映会が開かれました。開かれたと受動的なのは、この映画の上映会を開いて、食の大切さを知ってもらう活動をされている、Iさんが主催の会だったからです。ご縁で繋いでもらった日でした。
『いただきます』というタイトルのこの映画は、福岡にある、とある保育園の取組みを底流に、発酵のチカラ、食の大切さを描くストーリーで、
「生きることは食べること」という大事なテーマが主軸になっていました。
園長先生の、とても高い志が、脈々と園児や関わる保護者さんたちに伝播し、子供たちは、生き生きとして暮らしています。
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と、
ここで私が皆さんにご紹介しているのには、訳があって。
素晴らしい映画なので、機会があれば、観られることをぜひオススメもしたいのですが。
今日のクローズアップは、その主軸とは「別の」視点なのです。
この映画のワンシーンにも出てくるのですが。食に関して意識が高い取り組みの甲斐あって、園児たちは、盛られた食事をとてもきれいに、一粒残さず食べきります。
これに感動した保育に関わる方たちが(自分の園では、なかなかそんな理想にはなっていないから?か)、絶え間なく視察に訪れるのだそうです。
その中の一人の、元小学校の先生のコメントが、私自身には、とても響いたのでした。
「確かに、出された食事を、残さずに食べきることは、提供者にとっても保育に関わるものにとっても、とても嬉しいことなんです」
「でも、……」
と先生の話は続きます。
「全部残さず食べることが
『目的』
ではないのです。
これは
『結果』
なんですね。」
と。
つまり、全部食べきることを『目的』に作ってきたのではなく、
園長先生や職員、保護者など、園児を見守る方々の、つよい想いが前提にあって。試行錯誤しつつも、食を通しての努力が積み重ねられた。
その先に、『結果』として、全国から視察に来られるような事象が起きた、と話されたのです。
私は、このことにハッとして、目が覚めたような気持ちになったんです。
私たちは、何であれ、
結果としてあって欲しい姿を、目的にしがちではないか?との問いが起こりました。
たとえば、仕事や活動では、
フォロワーが増える、
注目が集まる、
人が集まってくる、
もっといえば、
お金をたくさん稼げるようになる。
本来なら『結果』としてついてくる何事かを、
何かをやり始めるための、一足飛びの『目的』と履き違えてはいないか?
と。
だから方法論やスキル、溢れる情報に、不透明なまま依存してしまいがちなのでは?
と。
どんな想いで、これを伝えていて
どんな人に届いて欲しいという理想があって
どんな風に対価を受け取れると嬉しいのか。
そしてその先に、どんな未来を描くのか。
そしてそのために私はどう動いていくのか。
そこにある理想やビジョンが目的となる時、
きっと結果もそこに重なるはずだと思います。
私たちの日常の中で、
たとえば子育て、
たとえば健康、
大げさにいえば、人生全般の
目的と結果が、
なるべく川の流れのように自然なものであるように、そしてそこには想いを育み熟成させるための大切な時間経過も含まれるということに、
意識をむけてみようと思います。
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