人生における身体性

つくづく「人間は肉体だ」と思う。広い家、広い部屋、広い土地で生きる人々と、狭い家、狭い部屋、狭い土地に生きる人間とでは、その立ち居振る舞いも、声の出し方も、考え方までも変わってくる。
私は「狭い」人間である。なにせ生まれてから一度も、住まいのおよそ半分の面積を占めるリビングに足を運べた試しがない。

生きることは、人間の実例を増やすことでもある。この二十年間、日本の狭い国土のそのまた狭い東京で生きる中で出会す実例の大半は、「広い」暮らしを送る「広い」人々であるように思われた。少なくとも私は確実にそうではないからだ。

広い人々は常日頃から自分達の持つ空間的自由を存分に享受している。それ故に、その心も人としての器も広く、多かれ少なかれ常に人生に余裕がある。だが時にその広さが、転じて横柄で傲慢な態度として顕現することもある。一挙手一投足、一言一句、あれやこれやの態度全てが普段占有する「広さ」を前提としたものになるのだ。何はともあれ、総じて広い人々は自信に満ちている。広い暮らしは、広い人生を意味するのだ。

少なくとも「広さ」は人間に恩恵をもたらすが、他方で「狭さ」は呪縛である。私のような狭い人間は、その呪縛故に文字通りの意味においても肩身の狭い思いを自らに課している。満足な空間的自由に浴することが出来ない事実に常に精神的負荷が生じ、当然その人生に余裕など微塵も生じる隙間などなく、人としての器も狭くなる。そんなものだから、やはり一挙手一投足、一言一句、あれやこれやも総じて狭く自信が一切感じられないものになる。狭い暮らしは、狭い人生を意味するのだ。

社会は広い。空間という意味においてもそうであり、何事においてもやはり「広い」のだ。そんな広い社会で思う存分羽を伸ばして暮らすことができるのはもちろん、広い暮らしを送る人々だけであり、狭い人間はただ場末よりも遥かにひそやかな '隙間' に生きることを努める。

広い・狭いの価値尺度がどれほど万能かは定かではないが、少なくともそう納得する他なかった。そうでなければ、私の潰えた10代があまりにも報われず、これから対峙すべき20代にも真っ向から向き合えないように思われた。

狭い人間として、広い社会を渡っていくには、感覚的に今このタイミングで何かを変える必要に迫られている。生活が人生を、肉体が人間を規定するのであれば、まずは生活を今からでも少しづつ「広く」していくべきなのではないか。

昔から映画が好きで、街の映画館で一日を過ごすことも少なくなかった。仕事と返済に追われていた両親は私に感ける広さと余裕など持ち得なかった。その苦渋を今は理解しているが、当時の幼い私には自分に課されたあらゆる「狭さ」がひどく苛立たしかった。映画は良い。映画だけは広い人生を許してくれる。映画に浴することのできる事実はそれだけで何事にも変え難い人生の「広さ」だった。

思うに、映画館で観る映画にだけどうしようも無く心が揺さぶられるのは、とどのつまり脳だけでなく、「肉体」が揺さぶられていたのではないか。やはり、人生を豊かにするのは「広さ」、その広さに浴する「身体性」に違いない。

狭い暮らしを送り続けるがあまりに、人生すらも狭いものにしてしまっていた。自分以外の全てが堅実に前進し、自分に関する全てが着実に衰退しつつある今、せめて生活の小さなところから「広く」していくべきなのではないか、と考えている。人間は本来、その生活に、人生に、自分の身体性を許していいはずである。

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