SNSなんてどうでもいいから、俺をみてくれ
「PV数を稼ぐなら、あの○○(有名ライター)にお願いしましょう」
そういった声が編集者から聞こえてきた。あるカフェでの一幕。おそらくクライアントと次の記事について話をしているんだろう。そしてクライアントは多くの人に見てもらいたい商品やサービスがある。だから多くのPVを獲得できる人を編集者に要請している。そして出てきた答えが、Twitterのフォロワー数がおおい“あの人”なのだ。
もちろん僕には声がかからない。理由はカンタンだ。文章力もまだペーペーだし、Twitterのフォロワー数も少ないからだ。僕が編集者の立場でも、迷いなく“あの人”を選ぶだろう。その意味では編集者の判断は健全だ。血迷っていない編集者は世の中に必要である。
しかし、だ。
記事のPVが多いからといってなんなんだ。「本当にいい記事」「10万PVいった記事」、なんの相関関係があるっていうんだ。PV数が多くても、中身がすっからかんで、読んだ直後には記憶からすっとぶような記事も溢れている。そんなのは教養にも、人生の糧にもならない。暇つぶしとして消費されるだけなのだ。
その一方で、PV数が少なくても読者の心を支えつづける文章は存在する。誰かの本音を代弁してくれたり、今の悩みを的確に解決してくれたり、自分でもよくわからないけど何度も読み返してしまう素敵な文章だったり。そういう記事は、仕事が少なくて究極的にお金がなくなったとき、部屋の隅でどうしようもなく泣きたくなるとき、そっと毛布をかけてくれるのだ。記事でなくてもいい、本でも音楽でも映画でも。誰しも、それを見て聞くと、腹の底からパワーが溢れてくる作品を抱えている。それが、本当に世の中に必要なもので、人なのだ。
そのときにTwitterのフォロワー数で人をアサインし、PV数で記事のよしあしを判断するから、世の中が少しづつズレていくのだ。その先は、あたたかい世界だろうか。数字で人を判断する世界は冷たいものだよ。
あー、SNSのフォロワー数ではなく、本当のおれをみてくれ。おれじゃなくてもいいから、本当の人、記事、音楽、絵。「数字」で濁りきったメガネを外して、それらを真っ正面から見てほしいのだ。その記事でどんな影響が読者に訪れ、どんな幸福が生まれ、不幸が誕生するのか。読者の人生を、成長の方向性に歩ませたいのか。
人はいとも簡単に、大切なものを見失う。大切なものは目に見えないと、星の王子さまが何回も訴えかけていたのに。僕らはいつも見失う。
数字という客観的な指標は、歴史に残る発明だけど、それに惑わされる世の中はごめんだよ。