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書くことはもっと自由でいい

誰に向けた言葉でもいい。カフェで目の前に座ってスマホのオンライン学習に励む女子高生にむけて息抜きの言葉を投げてもいいし、隣に座るメガネ姿の親子に芸術の尊さを述べてもいい。

それは自分に向けた言葉でもいい。フリーライターとしてバリバリ頑張っていた1年前の自分でもいい、高校3年生の時に鬱屈とする受験勉強をしつづけた俺に慰めの言葉をかけてもいい。

とにかく、書きたいという衝動に身を預ければいい。そのときに出てくる言葉を塞がないで、解放して、誰かに届けて、世界の誰かに認めてもらえればいい。その人の心の中にそっとしまってもらえばいい。世界中すべての人を納得させられる万能の一言も物語も存在しないんだから。悲しいんだけれど それが揺るぎない事実だ。


朝日が差し込む部屋に寝そべる猫と、考えればわかる答えをいつまでも探す彼女。


でも、こんなに自由に扱える言葉のはずなのに、「誰か一人に向けた文章でなければいけない」「20代のOLを元気付ける文章を書かなければいけない」「自分が読みたい文章を書かなければいけない」、そう誰かが言った言葉を受け入れて自分をがんじがらめにした途端に文章は自由さを失う。しなやかさがなくなり、その自分の思いから出発している言葉のはずが、その実は誰かの思考に操られていたなんてことが起こるんだ。名著を読むとそれが起こる。他者の思考を崇拝した途端に、ぼくらの言葉は自由さを失う。

感情をもっと自由に表現すればいい。その時々の自分に素直になればいい。週末の夜に観たレイトショーから刺激を受けた言葉を履けばいいし、Spotifyから偶然流れたシティポップの歌手に思いを馳せた思考を書き連ねてもいい。その文章に「誰に向けた」なんて存在しない。俺でもない、他者でもない、空中に浮かんだ誰かにいま伝えたい言葉をぶつければいい。浮遊した言葉はネットの洪水に紛れて誰かに読まれるかもしれないし、未来の自分を勇気付けるかもしれないし、批判の的になるかもしれない。

今日はずっと雨かな。正しい街で正しい言葉を吐く彼女がちいさく呟いた。

#エッセイ #コラム

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