「聖域」をなくす女の子、つくる女の子
学生時代、好きな文章をかく女の子がいた。その子の趣向や感情がポップに反映された文章で、主観まみれだけど、とても読みやすい文章で。その子自身の明るいキャラと客観的にわかりやすい文章力がうまく両立されていた。文豪のような文章力ではなく、多くのファンを生み出すような、素敵な文章を書いていた。
そして、彼女は新卒で編集プロダクションに入社した。そこでは多くの編プロと同様、多くのライターの文章を削ぎ落としたり付け加えたりして、より良いものに仕上げる編集業、そして自分もライターとして企業のオウンドメディアの取材・執筆をこなすライティング業。編集・ライティングの二軸で仕事が進んでいくわけだけれども、それらの多くは企業から頼まれて、文章を書いている場合が100%だ。「私たちの企業イメージをあげてほしい」「弊社の新サービスを魅力あるように広めてほしい」。そのために企業のオウンドメディアのディレクションを行い、広告記事を書いていく。そしてそこに編集・ライティングのスキルをすべてぶつけていくのだ。しかしそこで、「あるもの」が邪魔になる。
それは書き手や編集者の感情だったり、思い入れだったり、キャラだったり、哲学だったり。例えば、iPhoneの説明書の文章に、書いた人の感情が書いてあったら邪魔な場合がほとんどだろう。「ホームボタンと側面のボタンを同時に押すと、ななななななんと、スクリーンショットができるのです!!!」あきらかに「な」は5個不要だし、そもそも「なんと」もいらない。「のです!!!」は一瞬で削られるだろう。こういう文章の削りが、企業からの依頼文章では行われる。書き手の感情は、おおいに邪魔になる。そして、そんな状況下で書き続けるとどうなるのか。
彼女がその編集プロダクションに入社して1年後、彼女が書いた文章をみた。寄稿しているメディアは彼女が学生時代から書いていた、文体も企画もとても自由なメディアだ。僕もそこで彼女の天真爛漫な文章をみてホレた。寛容なメディアがあるから、自由な書き手が生まれるのだ。そして、彼女は編プロで基礎的なライティング技術を徹底的に身につけてきた。先輩から赤字をいれられ、200本以上の記事制作にたずさわり場数を踏んだ。記事と向き合いつづけて1年後、ふたたび古巣で彼女は記事を書いたのだ。
たしかに文章は整っていた。記事で伝えたいメッセージも素晴らしく、それを的確に伝える文章であった。でも、もう彼女ではなくなっていたのだ。1年間、クライアントと、先輩から指令されるとおりに書いていき、彼女は彼女を失っていったのだ。僕はひどくショックをうけた。彼女の躍動感ある文章がちいさくまとまっていたことにもショックをうけたし、なにより彼女自身が、彼女を失っていることに気づいていないことにショックをうけた。彼女はもう戻ってこないかもしれないと、そう僕は感じた。
仕事で文章をかくと、お金を出している側がエラくて、お金をもらって書いている書き手はそれに従わざるをえない。そして、多くの才能のある書き手が、彼らの色を失っていった。それは2018年のいまでもおこっているし、何十年前から変わらないことなのだろう。でも、その中でも、企業で書きながらも自分のことを見失わない人もいる。
そういう人は、自分の文章を書く「聖域」をもっていた。それはブログであったり、Twitterであったり、日記かもしれない。その中で誰からの制限を受けない「自分が伝えたいこと」「自分が喜ばせたいと心から思う人を喜ばせる文章」を発信しつづけていた。
企業と先輩の色に染まって輝きを失う人と、仕事を全うしながらも自分の聖域をつくって広げ続けている人。おおくの人は、知らないうちに前者の席に座ってしまうのだ。彼女のように。
でも、どんなに忙しくても、睡眠を削ってでも、聖域を作りつづける人もいる。魅力が年々増していく人もいる。いったい、僕らはどっちの道を選びたいか。選択肢はいつだって、僕らの中にある。