「誰もお前のことを見てない」悲しいけれども、希望だ。
「お前はつまらない人間だ」
いつもそんなことを、周りから、そして自分から、言われているような気がする。いつから自分は「面白いやつでいなくてはいけない」という呪いにかかってしまったんだろうか。なんて、自分を小さい世界に閉じ込めてしまう呪いか。自分の言葉や考えを萎縮させる呪いのことか。苦しいんだ。
***
それはふとしたきっかけだと思う。参加した会社の飲み会で愛想笑いしかできずに終わったとき。自分のエピソードを話している途中に店員がお酒を運んできて、いつしか他の人の話で盛り上がっていたとき。Twitterで渾身のいいねを狙ったつぶやきに反応が一切なくて、友達がいつも通りにつぶやいていたとき。
そんな些細な体験をして、ぼくは言われてもない言葉を周囲から受け取る。
「お前の喋ることはつまらないから、早く話を終わらせてくれ」
「読んでもつまらないから呟かなくていいよ」
そして、「なんで俺はこんなにつまらない人間なんだろう」と自分を攻める。「もっと面白い人間にならなくては」と心に決める。でも飲み会に行って喋っても、文章を書いても、空回りしかしない。誰の心にも刺さっている気がしない。不安で、情けない気持ちになるのだ。
でも、こんなことを思っているのは、“自分”だけだ。
俺がいる飲み会で俺のつまらないと思われる話を聞いた人は、その場では「早く話が終わらないかな」と思っても、飲み会が終われば「今日は隣のイケメン君と仲良くなれて良き❤️」なんて考えてるだろうし、翌朝になれば「仕事が鬱だな〜」とか考えているのだろう。その人の感情の渦になかに、俺は存在しない。それは俺も同じで、飲み会がおわったあとに「あの先輩の話はつまらなかったな」「あのイケメン君は仮性包茎っぽい」なんて、考えない。他の人のことなんて頭にないものだ。
それは悲しくもあるけど、希望でもある。ようは「自分がつまらない」なんてことは、誰も覚えていないからだ。人は、感情を揺さぶるものならいくらでも覚えている。でも「つまらない」ということは、感情を揺さぶっていないということだ。
「ここ1年以内で体験した、一番うれしい出来事は?」
と聞かれたら、その時の喜びを思い出しながら答えられるだろう。でも、
「1週間前におきた、つまらない出来事を話してください」
と聞かれたら、答えにつまる人が多いはずだ。
人の思考のなかに「つまらない人」は存在しないし、「面白い人」も頻繁には登場しない。人は自分のことしか考えていない。集合写真で真っ先にみる人物は自分だし、褒められたり貶されたりするといたく気になるのは自分が可愛いからだ。
「つまらない」と自分が思っていても、世界中、だれも気にしていない。だったら、気兼ねなく、打席に立ってバットを振りまくってやろう。空振りなんかだれも覚えてやしない。もっと危険な発言を、嫌われる発言を、笑わせる発言を、ばかな発言を、アホな行動をしていこう。みんな自分のことしか考えていなのだから。
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