刀剣乱舞 悲伝 結いの目の不如帰 の感想と考察
虚伝、義伝、外伝、ジョ伝はある程度一度みたら内容が理解できたのですが、悲伝だけは理解できなかったので文章にまとめました。
→→→初見の感想
「すごいものを見た」その感覚が強く残った。しかし、正直Twitter等で言われていたほど、泣いたり悲しくなったりは出来なかった。「どういうこと?」という疑問で脳内が埋め尽くされてしまった。
→泣いたり悲しくなったり出来なかったことがかなり悔しかったので、自分なりに読み解いて行こうと思います。まずは「どういうこと?」の解消から。
2つの「どういうこと?」
①三日月宗近が成し遂げようとしていた事とは?
②山姥切国広と交わした約束とは?
この2つに的を絞っていこう。
①三日月宗近が成し遂げようとしていた事とは?
結いの目が山姥切国広に絡まってしまった歴史を見せているシーンあけから、波の音で目を覚ます山姥切(エモい)真っ白な三日月が儚く美しい強烈なまでの存在感で登場します。そして、おそらく観劇していた全員が疑問に思っていたことを山姥切が聞いてくれました。
山姥切「何故こんなことになったんだ」
三日月「俺は未来をつなげたいんだ。」
山姥切「未来を?」
三日月宗近は虚伝、義伝、ジョ伝でまるで未来を知っているかの様な言動、振る舞いを見せています。虚伝では「大きな試練に立ち向かうことになる」と予言めいたことを言い、義伝では伊達政宗の黒甲冑が自分達を円環に閉じ込めたことを言い当て、ジョ伝では骨喰藤四郎にお守りを渡し、結果的に山伏国広が折れることを防ぎます。これらの記録と今回三日月が語った目的により、
本丸の仲間が一振も欠けることなく未来へつなげること
が三日月の成し遂げようとしていたことであると考察できます。
しかし、これはあまりに孤独すぎる戦いだと思います。悲伝まで繋げるために何度折れた仲間を三日月は見てきたのでしょうか。足利義輝に対し「守りたくとも守れなかった。ありようを変えて、俺は歴史を守っている」「だから、俺は戦うのだ」と、語った彼は何度この後悔と決意を胸にしたのでしょうか。今なら「あんたを一人にしたくなかったんだ」「悲しい目をしている。だから、一人にはできなかった」と言った骨喰藤四郎の言葉も理解できます。ジョ伝でお守りに込められた三日月の慈愛を受け取った骨喰だからこそ察せられた思いなのでしょう。
②山姥切国広と交わした約束とは?
二人は激しい一騎討を終え、円環を繰り返し経験値が桁違いな三日月宗近に対し未熟な山姥切国広は刀を落とします。山姥切は円環の狭間で勝負に負けてしまいました。
三日月「山姥切国広よ、お主との手合わせ存外楽しかったぞ。また、こうしてお主と刀を交わしたいものだ」
山姥切「そのときは俺が勝ってみせる」
三日月「あぁ、約束だ。」
次に三日月と戦ったとき山姥切が勝つ。
それだけ。あまりにも当たり前の口約束であったためか、二回みるまで本当に気がつきませんでした。子供同士がゲームで遊んでいて負けたから悔しくて思わず飛び出た言葉の様です。この当たり前とも思える約束を三日月は大般若と骨喰にまるで宝物を見せるように語りました。
骨喰「ひとつだけ聞いてもいいか」
三日月「なんだ」
骨喰「どうして、燭台切光忠を斬った。どうして」
三日月「俺はあのとき、まだ折れるわけにはいかなかった。やらねばならんことがある。それに、山姥切と約束があるからな。」
骨喰「約束?」
三日月「過去と未来で幾度となく交わした約束だ。」
先にも述べたようにあまりにも孤独で気の遠くなる戦いです。自分で命を絶ってしまってもおかしくなかったはず、光忠に折られてしまえば楽になれます。円環の狭間にたどり着かなければ、もうそれで諦めてしまえる。しかし、折れてしまえなかった。約束がそうはさせなかった。おそらく山姥切が当たり前に口にした約束は三日月の希望となったのです。煤けた太陽が月を三日月に照らしてくれた瞬間とも言えます。
骨喰は心中を察して三日月を抱きしめ、言いました。
骨喰「あんたは、どれだけこの長いときをあり続けたんだ。この歴史をどれだけ繰り返してきたんだ?」
😭
骨喰、あなたは鏡だと私は思います。相手の気持ちをそっくり写す。三日月もこの時すがりついて泣けたらならどれだけ楽になれたでしょうか。
結果
①三日月宗近が成し遂げようとしていた事とは?
A:本丸の仲間が一振も欠けることなく未来へつなげること。
②山姥切国広と交わした約束とは?
A:次に三日月と戦ったとき山姥切が勝つこと。
ここでまたひとつ疑問が浮かびます。
この二つの願いと約束、はたして同時に成し遂げられるのでしょうか。
現状況ではたとえ連れ戻せたとしても、三日月を刀解しなければ結いの目をたどって時間逆行軍に発見される可能性が高まります。しかし、円環の狭間にて山姥切国広が「勝つ」=折るという状況だとすれば約束は遂げられ、辿られる危険性も回避できます。しかし、願いとしては遂げられません。三日月が欠けているのですから。三日月自身は自分を勘定に入れていないかもしれませんが山姥切はどうでしょうか。三日月を置いていくとは思えません。最終決戦を終えた山姥切は三日月と同じく「本丸の仲間が一人も欠けることなく未来へつなげる」という願いを持っているのではないでしょうか。どうかこの約束が新たな道を見つけ出し結いの目をほどく道であることを願います。
追記
明治座公演を考察用として観ていたので、千秋楽で山姥切国広が勝っていることにまったく気がついていませんでした!すみません…
勝ったとてなにも変わりませんでしたね…三日月は円環に帰ってしまいました。やはり折らねばならないのでしょうか?そんなことにはならないと思いますが…
次に考えていきたいのが鵺または不如帰についてです。刀であるのに「刀」という言葉がうまく言えない足利宝剣の集合体である名も無き刀剣男士。それが不如帰と義輝に名付けられ自分という存在を探し当てました。三日月は彼から何を受け取ったのでしょうか。二つの疑問から読みといていきます。
①三日月は不如帰に何を期待していたのか
②何のために不如帰は現れたのか
まず、不如帰の存在はおそらく三日月にとってイレギュラーだったと思います。不如帰初登場時に「これは面白い」と評価していますし、三日月の不如帰に対する「賭けてみたい」「無駄ではなかったのかもしれん」などのセリフから考えて、最初から現れていれば出てこないセリフだと思うからです。
これらのセリフから三日月は不如帰に円環の打破を期待していることが分かります。
三日月は鵺に語ります。
歴史とはすべての結果の上で存在している。逆接的に言えば歴史を改編するのは不可能だ。
と、つまり結果がすべてであれば歴史改編が行われていたとしても分からない、気づかれないということでしょう。改編を守っていて意味があるのか?という疑問が三日月の中に産まれたということだとしたら、刀剣男士としてあってはならいことです。
この考えを持ったから円環に囚われてしまったのでしょうか。
次に何故、不如帰は現れたのか。見ている最中対比関係であることはなんとなしに分かっていましたが、不如帰は未熟なまま事切れてしまった印象が強く、どうしても考えが及ばなかったので帰宅した母をつかまえて状況を説明し考えを聞いてみました。
三日月の中に疑問が産まれたからこそ、疑問のアンサーとして不如帰が登場したのでは?
という意見をもらいました。おもしろい!その答えがこのセリフの中にあると思います。
三日月「義輝の刀よ、俺はかけてみたいのだ。この円環になぜお主が現れたのか。誰がお主を必要とした。もし、お主がこの歴史に抗うことが出来れば、俺が過ごしてきた時間も無駄ではなかったのかもしれん。」
このセリフを分解して考えてみます。
!「なぜお主が現れたのか」→無意味に思える戦いに対するアンサー=歴史修正主義者との戦いも、円環での戦いも無意味ではない。繰り返すことで変容することもあるという証明。
!「誰がお主を必要とした」→義輝の刀であった三日月自身
!「 もし、お主がこの歴史に抗うことが出来れば、俺が過ごしてきた時間も無駄ではなかったのかもしれん。」→不如帰にこの円環を壊してほしいと願っている。三日月は繰り返す円環に疲れきって、おそらく自分ではどうしようもないと考えており、希望を見いだしている。
未熟ではあるけれどまっすぐに主を守ろうと戦った不如帰の存在により三日月は自分自身を見つめ直し、円環にて約束を遂げるための覚悟を新たにしたのではないでしょうか。ある種の行動指針「行ってきたことは間違いではない」という確信を不如帰の存在によって得たのではないかと思います。
①三日月は不如帰に何を期待していたのか
→三日月は不如帰に円環の打破を期待していた。
②何のために不如帰は現れたのか
→歴史改編を守っていて意味があるのか?繰り返す円環に意味はあるのか?という三日月の疑問に対するアンサーとして現れた。繰り返すことで変容する事実もあること、三日月が行ってきたことは無駄ではないという証明そのものが不如帰である。
三日月の終わりと始まりについて
力尽きかけた三日月は最後、円環の狭間に約束だけ残し還って行きます。そして顕現シーンへ。
最後は折れたわけでも刀剣に戻されたわけでもありませんでした。結果的に三日月は悲伝の世界線を繰り返すことになるわけですが、おそらく舞台初日としては円環の中ではじめて本丸が壊されなかった。誰も折れなかった世界線なのだと思っています。だから、三日月宗近は山姥切国広に本丸を任せて円環に還っていったのではないでしょうか。
さまざまな考察がありますが私は「必ず勝つ」という約束が結いの目の原因になってしまったとは思いません。三日月が円環を生き抜くための唯一希望。三日月を照らす細い光。それが山姥切国広なんだと思います。
最後に
明治座公演を見るのに一週間もかかりました。この文章を書いたり寝かしたりを繰り返してたら2ヶ月強もかかってしまいました。悲伝難しいです。書き上げた今も意味がわかっているとは思えません。けれど、惹かれます。書けなくなっているうちに慈伝も終わってしまいました🙄慈伝、笑って笑って萌えて萌えて仕方ない話でした。けれどふとした瞬間の山姥切国広の寂しそうなぼんやりとした表情が辛くて仕方なかったです。末満さんはすっごいな~!
おわり
嬉しすぎます!