つけめんヒストリ エピソード5
初めてのつけそば
麺釜の脇の作業台に小鉢十数個が並べて置いてある。
小鉢は直径12センチほどのスープ碗で、これに具材と調味料が入っている。
具材は短冊切りの焼豚、めんま、細切りナルト、海苔。
調味料は砂糖、酢、味の素、七味。
この小碗に醤油たれを入れ、ラードの浮いた熱々のスープと刻み葱を添える。
するとほのかな魚出汁の香りが漂ったかと思うとコクのある豚ガラスープ、そして醤油と少しの酢の匂いが鼻につく。
これが正安の命名したつけそばだった。
上原に移転してから中野に遅れること3年後にこの新メニューをお品書きに載せていた。
「このそば食べてごらん」
「はい?」
「とってもおいしいんだよ」
「えっ、なんだろ」
久子は入店したばかりの伸二に賄いの昼食でつけそばをすすめた。
「どう?」
「・・・なんか知らんけど・・・不思議な味ですね、おいしい、こんなの初めて食べた」
「うちしかないメニューで、親父さんが考えたつけそばっていうんだよ」
「そうなんですか、珍しいラーメンですね、麺が冷たくても美味いんですね」
「もう少ししたら朝の製麺で、そばを作れるかもしれないわよ」
その数週間後伸二が製麺担当になった。
「おい伸二、これからそばつくるぞ手伝ってくれ」
「はい」
「最初に言っとくが、機械が動いてる時にさわちゃダメな箇所がある。
ローラーに指挟んだり、攪拌機の下から手を突っ込んで指落とした奴もいるからな」
「わかりました」
「とりあえずそばが切り歯から出たら、粉を振ってくっつかないようにするんだ。それからそばを手首から肘の長さくらいまでちぎって箱に入れてくれ、こんな感じで」
「はい」
伸二は片栗粉が入ったサラシ袋を手に、顔中真っ白になりながら切り歯から出るそばに粉を振る。
粉の振られたそばを次々にちぎり作業台の上に重ねて、これを親指と中指でそばの真ん中を掴んで持ち上げ箱詰めする。
箱を上から見ると、そばが馬の蹄鉄の形をして並べられていくのが見てとれる。
圧延された麺体から切り歯を経由して出てくるそばを手でちぎる作業で、毎日のそばの太さとコシの出来具合を確認する。
これでスープに合う特性を見極めていた。
スーパーカブの出前
住宅地の出前は忙しかった。
代々木上原は出前人泣かせの坂道が多い。
開店当初は、この地に幾つもある坂道を自転車で配達していた。
岡持を持ちながらの配達の負担は大きく、慣れない従業員には辛い仕事だった。
その後、配達用自転車はスーパーカブへ変る。
さすがに世界のベストセラー、ホンダのスーパーカブの自動遠心クラッチの活躍は面目躍如だった。
バイクは店前に常時二台あり、アイドルタイム時の店の休みはなく一日営業するなかで誰かしらが出前に行っていた。
デリバリー先駆けのドミノ・ピザ・ジャパンが創業されるのが20年後の昭和60年である。
出前用機械のスタビライザー、ましてルーフ付きのデリバリーバイクなどはない時代。
初期の頃は保存用ラップもないので、配達場所に到着して麺類のスープが丼からこぼれ、汁なしそばに変化することもままあった。
最大で20キロ以上にもなる岡持ちを左手、右手でハンドルを握り平衡感覚を維持して走行するのは危険運転だった。
配達地域は決まっていて手の握力が続く限り、食いしばって大事な岡持を運ぶ。
雨の日などは雨合羽を着て視界の悪い中を配達しなければならない。
風の強いある日、近所の知り合いの主婦が血相を変えて店にやってきた。
伸二の怪我
「ちょと大変よ、おたくの従業員さんがバイクで倒れて下敷きになってるわよ」
「ええっ!場所どこですか」
「すぐそこの写真屋さんの脇道」
光枝は慌てて店を飛び出し事故のあった現場へ向かった。
通りがかりの人達がバイクを起こして、伸二を助け出しているのが見える。
「もしもし大丈夫ですか、歩けますか?」
「あ、大丈夫です」
「今救急車呼びますからじっとしてください」
「ちょとちょと、救急車はいいです、大したことありませんから、ありがとうございます」
「病院は近くにあるの?」
「すぐそこの商店街にありますけど、行く必要もないですから」
「そんなこと言ってないで一応病院に行ったほうがいい、骨が折れているかもしれないから」
バイクを起こしてくれた通行人から病院へ行くよう促されたが、伸二は病院に行くほどの怪我ではないと断った。
自分の不注意で大袈裟にされるのは嫌だったのである。
しかし歩こうとしたらやはり足の痛みが酷く歩きづらく、そのまま身体を支えてもらいながら病院へ向かうことにした。
光枝が近くまで来ると伸二が数人の人に担がれているの見て思わず叫んだ。
「伸ちゃん大丈夫!」
「あ、お母さん、いやそこの窪地にハマって転んでしまって、すみません」
「何言ってるのあんたいいのよ、それより怪我なかった?」
「大丈夫、大したことないです。ちょっと打撲したみたいだけど、骨は折らんと思うし」
出血は無く膝関節あたりの打撲で腫れと痛みはあったが、検査結果で幸い骨折はしていなかった。
配達に向かう途中、道路のちょっとした段差でブレーキをかけ、ハンドル操作を誤りバランスを崩して横転したらしい。
投げ出された岡持から、割れた丼と麺、スープは道路一面に散乱していた。
光枝は店からポリバケツ、箒を持ってきて後を片付けたのだった。
太麺への試行錯誤
「いらっしゃいませー」
「おう久子ちゃん、俺いつものね!」
「はい、分かりました。鈴木さんいつものお願いします」
鈴木は上原銀座商店街にある老舗の質屋の主人で、つけそばの大のファンだった。
江戸っ子気質の鈴木はカウンター向こうの正安に大声で話しかけた。
「こんちはー坂口さん、商店街の理事会来週の月曜ですよ、よろしくお願いしますね」
「ああ、鈴木さんご苦労様です、分かりました」
鈴木はそばが茹で上がるまでの間、スポーツ新聞を読むのが日課だった。
「王が昨日またホームラン打ったな、今年もまた巨人の優勝かよ、阪神ももうちょっと頑張ってもらわねえとダメだよな」
「巨人が強いと面白くないんでしょ、鈴木さん」
「ああそうだ、面白くねえ」
「江戸っ子なのにね」
「大体江戸っ子はへそまがりが多いんだよ、皆と一緒ってえのが気に入らねえんだ。
巨人、大鵬、卵焼きかよ、ガキじゃねえんだからな。
久子ちゃんも巨人ファンだよな」
「わたしはあまり野球のことはわからないけど、巨人というより長嶋ファンかな」
鈴木は運ばれてきたシナチクつけそばを口にしながら、ふといつものそばと違うのに気づいた。
「あれ今日のそばって少しばっかり太くねえ?」
「えっ、そうですか?まあ確かに太いかもしれませんね、おかしいですか?」
「いやいやおかしくはない、何か違う気がする。なんだろ、歯ごたえがあってスープとよく合うような、気のせいかうまい」
「そうですか良かった、親父さん鈴木さんそばが太くておいしいって」
「そうですか、ありがとうございます」
「今日は伸ちゃんが作ったんじゃないかしらね」
「そうだ、おーい伸二」
正安は厨房奥にいた伸二に声をかけた。
「はい」
「鈴木さんそばが太くて美味しいって言ってるぞ」
「えっ、そうですか?、自分も今日はちょっと太くつくちゃったかと思ってたんです」
「なんだそうか、たまたま太くなったんだな」
「ええ、今日は小麦粉少なめで調節して、良く練られたんで弾力がよかったかもしれません」
「ふーん、それにしても太麺いんじゃねぇ、これいけると思うよ」
鈴木はつけそばを口に運びながら関心しきりにその味を誉めた。
正安も日頃から感じてはいたのは、そばが太めにできて食べてみるとおいしいということだった。
太麺で酢の酸味を多めにしても全体で味が引き立つ。
従来の中華麺よりも水分量を多くして柔らかく、それでいてコシを強くし太めにするというレシピは出来上がっていた。
しかしその頃の中野大勝軒は上原店よりもさらにそばを太くしていた。
昇が用事で中野に行く時は必ず伸二が、空になった麻婆豆腐のプラスチックの入れ物を用意して、麺とスープのお土産を持って帰ってくれとせがんでいた。
中野大勝軒はご飯物もなく、麺専門店の要素が強いので個性ある太麺で提供できていた。
この頃にはつけそばの噂が口コミで新たな客を呼び、場所も好立地ということもあり店は行列し始めた。
開店時は店の裏口にある、たたみ一畳分のスペースで製麺をしていた。
そばは注文に合わせて追加で作ることはできたが、スープの製造が追いつかず昼過ぎに閉店することも度々あった。
開店から閉店まで一日の客足が途切れることはない超繁盛店になっていく。
上原は他のメニュー湯麺、五目そばなど種類があるため、そばは程よい中太でないと合わない。
そばを2種類作って別に提供することはなく、つけそばそのものがラーメンの付随品の考えだった。
これが将来的にラーメンを凌駕する大ヒットになるとは誰も予想していなかったのである。
そばの味とスープとの絡み具合は長く試行錯誤して一つに調和させる。
そばの味を相性良く活かせるスープを作る。
これが合わないと、忘れられないそばの味にならない。
ぴたりと決まったそばとスープがその店の看板になる。
丸長の系列店は自家製麺でその個性を磨いて、微妙な修正ができているのも強みになっていた。
元祖つけそばと特製もりそば
中野大勝軒は昭和49年に橋場町から中野駅前現住所に移転するのをきっかけに、「元祖つけそば」の看板で麺専門の営業を開始した。
「特製もりそば」から「元祖つけそば」に変わったのである。
正安は橋場町の特製もりそばのことを一雄から聞いていたが、お品書きに書いたのは特製もりそばではなかった。
丁稚時代から長く日本蕎麦店で働いていたので「もりそば」の名称でメニューにするのは違和感を感じていた。
「もりそば」は日本蕎麦屋のお品書きであって、これを中華そばの部類で使うのは抵抗があったのである。
中華そば店を訪れる一般客には解り易い、「中華もりそば」とかのネーミングも候補にしたが決めかねていた。
浸けてたべる中華そば。
日本蕎麦屋でお品書きにない新しいメニュー名はないものか。
景気が上向き、明るい未来の見えてきた暮らしの中で考え、命名した新時代の商品名がつけそばだった。
特製もりそばとつけそば、二つの異なる名称がなぜそのままになってしまたのか。
そもそも今の情報社会とはまるで違う昭和30年代初期、離れた地域にそれぞれ顧客を持つ町のローカルメニューとして本人たちが全く気にする問題ではなかった。
中野の橋場町(現在の中央5丁目)で誕生した特製もりそばは、つけそばに変わるきっかけのないまま昭和49年現住所の移転まで、特もりと呼ばれるお品書きで続いた。
移転してからは特製の意味を冠したメニューということで、「スペシャルつけそば」をお品書きに書き入れた。
一方山岸一雄は自分の名づけた特製もりそばに誇りと愛着をもっていたので独立後もそのまま自分の店で使っていくことになる。
丸長運命共同体
信州山之内町を中心に田舎から続々と独立希望の若者が上京してきた。
丸長のれん会の店舗数も年を追うごとに増加し、平成元年時点では会員数63名になっていた。
のれん会の活動は新年会、総会、料理研修会、夏のレクリエーション、店主研修旅行のほか、野球大会、海水浴、ボーリング大会などの催しも盛んに行われ、会員同士の交流を深めた。
会員の子供たちと従業員が総出でこれらの催しに参加するために、各店舗の定休日を水曜日と決めていた。
血を分かち合った創業者たちが苦難を乗り越え創立した丸長のれん会は、彼らを慕って集まった若者たちが大きな原動力となって一枚岩の共同体を作っていく。
相互扶助と社会的地位の向上を目標に、独立した個人店主は利害関係のないのれん分け制度に順じて自分の努力と創意工夫で店を経営する。
毎日の決まった営業で休みも少なく、仕事に関する情報が閉鎖的になる店主の、心の支えとなるのは同じ志を持つ仲間の存在であった。
北信州山ノ内町は、上信越国立公園の志賀高原と歴史ある湯田中渋温泉郷、りんご、ぶどうなどの農産物に恵まれた山紫水明の平和郷である。
青木兄弟、正安、一雄ほか多くの丸長のメンバーがこの山ノ内町出身であった。
また不思議なことに、同じ首都圏で大きなのれん会を持つ生駒軒の創業者達もこの山ノ内町出身ということで繋がっており、世界平和観音建立時には同じ東京万人講のメンバーだった。
丸長主催のバス旅行でいつも合唱するのは西沢爽作詞、古賀政雄作曲の「うるわしの志賀高原」や県歌の「信濃の国」であった。
温泉街を見下ろす弥勒山の世界平和観音の台座室には、昭和39年の建立の際に尽力した丸長の会員たちの名が刻まれている。
「故郷」 坂口正安
高社の山のふきおろし
夜間瀬河畔のゆうしぐれ
我等ここに生うけて
きたえしことも夢なれや
西に北アの連峰を
東に志賀の連山を
朝な夕なに仰ぎ見て
我等は常に健やかに
高社の山の頂に
登りて四方を眺れば
はるか彼方の千曲川
金波銀波の波の色
仏の街の善光寺
長蛇の如し信越線
下りは越後、長岡か
平野の彼方去りて行く
足元近くのぼりたつ
湯煙は星川温泉郷
出入りの客の足繁し
其の名は広く知られたる
中野平はリンゴ町
湯田中野沢の分岐点
信濃の奥の山桜
香りを長く伝えよや