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つけめんヒストリ   エピソード1


丸長のれん会創立60周年

平成30年に丸長のれん会は創立60周年を迎えた。                                            丸長のれん会とは、主に関東近県に中華そば店を経営する店主たちの集まりで、丸長、大勝軒、丸信、栄龍軒の屋号を掲げる。
丸長の謂れは、会の創設者たちが長野出身であることから長野の長を店の屋号とした。  
3月、東京中野サンプラザに於いて店主、家族、取引先商社、メーカーそしてラーメン愛好家、丸長友の会の方々ら大勢のお客様をお迎えして記念祝賀会が行なわれた。
のれん会の創立は昭和34年となっている。
同じ志の同胞が結束を固める丸長の物語は、青木家が中心となって戦後間もなく始まる。

平成30年NHK朝の連続テレビ小説で「まんぷく」が放映され、日清食品創業者安藤百福氏の波乱に満ちた人生をドラマ化していた。
インスタントラーメン誕生から60周年を迎えて、同じように丸長のれん会の歴史の月日がこれと重なる。
まんぷくの主人公は終戦直後の食糧難時期に屋台で食べたことをきっかけに、紆余曲折を経てこの中華そばを、誰も考えたことのない独創的な提供方法によって一大食文化を作り上げた。                                      安藤氏の語録の中に「ラーメンは売るな文化を売れ」という言葉がある。
この言葉に合わせると、丸長のれん会は「つけ麺を売って文化にした」と言える。
同じ戦後の昭和の混乱期、高度成長期を経て現在に至り、つけ麺を日本社会に浸透させた。
なぜこれほどつけ麺が広く世に受け入れられたのだろうか。
それは戦前から日本蕎麦を営んでいた創業者たちが、必然的にラーメンの豚、鶏から取ったスープにかつお、さば等の魚介のだしを混ぜて使用したこと。
また終戦時の食料統制で小麦粉が配給制になっていた折に、委託製麺を始めたことで製麺技法が受け継がれ、のれん分けした各店舗が自家製麺というこだわりを維持したことが挙げられる。

丸長のれん会60周年祝賀会

サバ等のダシに歯ごたえのある太麺のうどん。
蕎麦とタレを分けて提供する日本蕎麦のもりそば。
甘酢の効いたタレに具材の乗った中華麺、冷し中華。
動物系ラード等の油の馴染んだ熱々のスープのラーメン。

時代を経てつけ麺を継承できたのはこれらの麺料理の特徴を生かしたスープと麺のバランスを絶えず各店で工夫改良してきたからで、魚介ダシ入りの中華スープと自家製麺があってはじめて可能にした。
また小麦粉の質が向上したことで麺質も改良され、地球温暖化による気温上昇もあり冷たい麺を一年中食べることがそれほど気にならなくなった。
美しい信州の風土への郷愁、特徴的な同胞の人々の麗しい人情が繋がり、のれん会の店舗が拡大し、つけ麺の認知も広く社会に浸透した。
「情を食べる」という言葉がある。
食べ物屋を営業する上で欠かせないのが、その店の主人の人情だろう。
通り一遍のサービスでなく人柄を思わせる客への人情も、この商品を育んだ要因の一つである。
さてラーメンを凌駕したつけめん、このつけめんの歴史をひも解いてみよう。

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 現在の中央五丁目バス停前

        


伝説の橋場町マーケット

つけ麺は東京都中野区中野にある大勝軒で始まったとされている。                   大勝軒の現住所は昭和49年に移転した場所で、それ以前はかつて橋場町と云われた現在の中野区中央5丁目にあった。                                              橋場町の地名は、この地を流れていた桃園川に掛かる桃園橋に由来する。
桃園川はJR荻窪駅の北、天沼弁天池周辺の湧水を水源として阿佐ヶ谷駅の北から高円寺南を通り大久保通りと並行して流れ、東中野の神田川へ合流する。
現在は暗渠となり緑道としての面影を残している。
この川の流れと呼応するように丸長の暖簾は荻窪から始まり阿佐ヶ谷、高円寺を経由し中野へと移ってきたのである。

中野駅から南へ向かう中野通りには古くから味噌、米、乾物、酒屋などの問屋と包装材日用品などの雑貨店が軒を連ねていた。
中野通り中央五丁目のバス停前に戦後から続くマーケットがあり、住居の他に呑み屋、床屋、八百屋、乾物屋、包装材屋等30数件の世帯が暮らしていた。
大勝軒はこのマーケットの入り口で営業していた。
かつてバス会社から「中央五丁目大勝軒前」という車内お知らせのアナウンス広告をしたいという話があったそうである。


橋場町の大勝軒 0012
 昭和27年頃 橋場町の大勝軒

        

つけめんの名づけ親

昭和47年頃のある日、面白い中華そばを提供する店があるという友人の話に引き付けられ、中野大勝軒を初めて訪れた男がいた。
今にも倒壊しそうな間口二間のバラックで屋根はコールタール紙、壁はベニヤという建屋。
軒先にある暖簾は七枚巾の白地に朱色で「中華軽食」と書かれ、その中央へ縦に黒字で大勝軒とある。
手作りの立て看板に薄れて読み取り難い「勉強の店 大勝軒」とお品書きの文字が。
入り口は引き戸を中央で開ける要領になっていて、暖簾が縦に長いため外から見えるのは客の後ろ姿で中の様子はよくは解らない。
店の前にはいつも数人の客が席の空くのを待っていた。

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昭和48年頃 橋場町時代の大勝軒 雑誌ミセスより


待つこと数分、店の中から店員に声をかけられた。

「何にしますか」

男の友人が「特製肉入り一番」 370円を二つ頼む。
5,6分で席が空き、店内に入るとカウンターが鍵折り状にある。
空いている席二人で腰掛けると、直ぐに醤油味らしきスープに焼豚、メンマのりといった具材が入った小鉢が先に差し出された。
友人が小声で呟く。

「こうやって待ってるんだよ」

と慣れた手つきで小鉢に胡椒を振っている。
男も真似をして、言われたようにして胡椒を振った。
あたりを見回すと、カウンター越しのすぐ目の前に、ぐつぐつと沸いて煮込んだスープの寸胴がある。
その中に浮かぶのはラードでキラキラと輝く玉葱、長葱、人参などの野菜。寸胴の横では湯気がもうもうとする麺釜に、そばを多量に茹でているのが目に入る。
奥行1間半ほどの狭い店内で、土間に置かれた椅子が7席。
飾り気のあるものは何一つなく、油がしみ込んだラジオから聞こえる番組だけが間をつなげている。
低い天井には換気扇らしきプロペラが回り、そのまま天井が吹き飛びそうな様相である。
昭和47年当時でもこのような戦後のマーケットの面影を想わせる店は珍しかった。

肉入りつけそば


まだ若い店員が二人で忙しく働いている。
店員の一人が茹った多量のそばを大ザルですくい水道の水で洗い始めた。
洗い終えると用意された皿にそれぞれ盛り付けをして、カウンター席に出した。
これを先の醤油スープの小鉢と一緒に日本蕎麦のもりそばの要領で食べる。
そばは太く餅っとして歯ごたえがあり醤油味のスープが酢と唐辛子と良く絡みラードのコクがこれを口蓋に滑り込ませる。
通常の2倍あるボリュームのそばの量を感じさせないほど、これを受けとめる醤油スープの濃い旨味が食欲を増す。
あらかじめスープに入っている短冊切の焼豚、メンマ、薬味のネギもまたそばと一緒に味わうことができる。
するするとそばを食べ終えると店員が声をかけた。

「どうぞ」

目の前の寸胴から柄杓で、小鉢にスープを流し込んでくれた。
中華風そば湯である。

余韻を楽しむ余裕もなく、後に続く客が待っているので勘定をしてそそくさと店を出た。
帰りの道すがら男はこの中華ソバの斬新な食べ方、そしてその得も言われぬ旨さに衝撃を受けた。
「あれは一体なんなのだろうか」
今まで経験することのない食味にこれからの自分をオーバーラップさせた。
「これはいける」
この男こそ後につけ麺大王の一大チェーンを創り上げた人物その人である。
そしてその自分の直感を信じ身内の者たちを説得して新しい店舗を作り出していったのである。


つけめんが認知される

当時の中野大勝軒は中華そばの面白い店という噂で口コミが広がっていた。流行っているおいしい店の情報はあくまで口コミによるものであり、それがなければフリーの客として店に入る。
昭和40年代は情報化社会以前の高度経済成長期のただなかにあった。
食べ物屋が雑誌、ましてテレビに取材されることは滅多にない。
食生活が豊かになり、繁盛店などがようやくマスコミに取り上げられるようになるのは昭和の時代も終わろうとする頃だろう。

当時中野大勝軒ではまだお品書きが「元祖つけそば」でなく「特製もりそば」だったのは山岸一雄の名付けたメニューがそのまま残っていたからで、昭和49年現在の場所に移転してから、もりがつけに替わることになった。「特製もりそば」を命名したのは山岸一雄だった。
特製の意味は、スープの中に特別の具材が盛りだくさんで入っているとか、スープを特別に作る意味ではない。
当時はラーメンと言わず中華そばの時代であるがゆえ『中華そば』の一風変わったメニューという意味で特製を頭に載せた。日本蕎麦屋の『もりそば』と混同して間違えないようにとの配慮だった。
丸長の店主たちも終戦後から昭和にかけて、麺とは言わずそばと呼称していた。
麺という言葉が一般的になるのはつけ麺大王以後、パスタ類が広く世に浸透し、これらを総称するようになってからである。
つけ麺大王がつけ麺を世に広めたおかげでつけそば、特製もりそば、ざるラーメンなど名称こそ違うが中華そばの食べ方のスタイルが社会に浸透することになる。


つけめんヒストリ エピソード2
中野大勝軒

つけめんヒストリ エピソード3
代々木上原大勝軒

つけめんヒストリ エピソード4
元祖つけそば誕生

つけめんヒストリ エピソード5
山岸一雄が東池袋大勝軒開店
つけそばが丸長に伝えられる

つけめんヒストリ エピソード6  
青木家の兄弟と丸長の開店
坂口正安が参加し丸長、丸信、栄龍軒、大勝軒に分離独立

つけめんヒストリ エピソード7
高度成長と丸長のれん会の発展

つけめんヒストリ エピソード8

一雄は正安に懇請され阿佐ヶ谷栄楽に入店する

つけめんヒストリ エピソード9
光男は東池袋大勝軒の一雄の話を聞きに通うことになる

つけめんヒストリ エピソード10
それまでになかった東池袋の味と中野の相違点

つけめんヒストリ エピソード11
光男が中野大勝軒に入店

つけめんヒストリ エピソード12
湯気の向こうに客がいた


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