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つけめんヒストリ エピソード 12


中野ボディビルセンター


中野五差路に戦後の面影を残す映画館「中野光座」があった。
大きな建屋はエンジ色のブリキで覆われていて、その隣には「中野ファミリーセンター」がある。
闇市を思わせるこの商業施設に肉屋、八百屋、乾物屋などがあり、中野ボディビルセンターはこの2階にあった。
光男は休みの日に尋ねることにした。
2階を登った踊り場入り口にはシューズが所狭しと置いてあり、熱気が部屋の外まで伝わってくる。
恐る恐るドアを開けると、人の叫び声が部屋中に響いてコーチらしき人の大声が聞こえる。

「うぉー、はぁはぁ」
「ほらー気合い入れて、もう一丁!それー」
「ぐわぁ~」
「いいぞ、がんばれー」

観るとそれほど広くはないトレーニングルームで、筋骨隆々の男たちがけたたましく声を出しながら汗を流し、真剣な表情でウエイトトレーニングをしているではないか。
後に知ることになったが、全日本チャンピオン経験者や格闘家、現役プロレスラーらも通う、そうここは知る人ぞ知るボディビルダーの聖地だったのだ。
光男はとんでもない場所に来てしまったと思い、はたして自分の居場所がここにあるのか一抹の不安を感じた。
昭和54年、当時大手のフィットネスクラブはまだ存在しておらず、器具を使用したスポーツクラブは限られた場所にしかなかったのである。
責任者らしき男から声をかけられた。

「こんにちは、初めての方ですね、いらっしゃい。入会ですか、見学ですか」
「えっ、はぁ、あのちょっと見学させてください」
「それでは、どうぞご自由にご覧になってください。何か質問がありましたら遠慮せず聞いてください。あれ、なんだ、どこかで見たことがあるかと思ったら大勝軒の人じゃないですか」
「あっ、そうです、いつもありがとうございます」
「どしたの今日は、ああ水曜日でお店休みの日ですね」
「ええ、ちょっと気になって今日はどんな感じなのか観にきました」
「そうですか、それじゃ施設案内しますよ今時間あるから」

コーチは、たまに大勝軒に来店するお客さんで『肉入りつけそば一番ゆでタマゴ3個入り』が定番だった。
上腕二頭筋が半袖口にピッタリとはち切れそうに盛り上がって、顔は往年の宇津井健のようだ。
低音で大きく通る声に押しがある。数十年後、彼は日本ボディビル協会の理事長になる男だった。
一通り見学するとコーチも会員もほとんど男性で、同年代の若い人たちが多いことに気づいた。
光男はなんとかまともに毎日の仕事をこなせる体力を持つことを当面の目標にしていた。
本格的にトレーニングするのでなく週1回通うことで身体を鍛え直し、ある程度の筋力をつけることに決めた。


アルバイト初雇用


「どうします?」
「ええ、一応入会させてください」
「おぅ、良かった、それじゃこちらの申込書に記入してください」

地味にセンターで顔を出すうちに一人の若者に声をかけられた。名前を西条といって光男より年は一つ下で、中背だが見るからに筋肉量がすごく大会を目指している男だった。

「こんちは、あなた大勝軒の人ですよね」
「ええ、そうです」
「いつも混んでて、お店忙しそうですね」
「ええ、ありがとうございます。忙しいのはいいんですが、身体はかなりしんどいです。ラーメン屋はほんとにきつい、ラーメン屋に限らず食べ物商売はどこも大変だろうと思うけど、毎日仕事終わればバタンキューですよ」

「一日どのくらいお客さん来るんですか」
「平均300人ぐらいかな、席が11席なんですけど1日30回転ぐらいしますね」
「えーそんなに来るの?二人だけですよね、休む時間もないでしょ」

「ええ、まとまった休憩はないです。休憩は客が途切れての食事時間だけです。それにしてもあなたは凄い身体してますね。どのくらい通っているんですか」
「まあ、トレーニングやり始めて3年経ってます。これだけが取り柄ですよ。     ところであんなに忙しいのに、なんでアルバイト入れないんですか」
「ああ、そうアルバイトね、そうしなきゃいけないんだけど、なんていうんだろパート、アルバイトは今までいたことがないし、仕事こなせないというのか今まで職人しかいないんです、募集広告はしたことがないんですよ、張り紙すれば来てくれるのかな」

「そうなんだ、ふーん」

西条は暫く考えるような仕草をして光男に話しかけた。

「そうだ、それならもし雇うんであれば、俺にやらせてくれませんか?今は大会も終わって時間ができて、定職がないし」
「ええっ、あなたが」
「ちょうど仕事探していたんですよ。ラーメン大好きだし、ここにくる前でも後でも仕事できると思いますから」

西条は地方出身でボディビルの大会出場を目指し、定職を持っていなかった。
週の大半をトレーニングに費やすビルダーたちは身体を鍛える時間を優先し、残りの空いた時間を仕事に充てる生活の若者が多くいたのである。
思いがけない彼の申し出に、光男は戸惑いはしたが何か縁を感じた。
自分の体力のことや食事などのアドバイスも身近で相談できるかもしれない。
翌日、光男は早速横山に相談した。

「昇さん、前から思ってたんだけどこの店を二人でやっていくのはちょっと厳しくないですか、橋場町から今の駅前に移転して、さらに多くの客が来店しているわけだし、もう一人でもいれば楽になると思うけど、誰か見つかるまでアルバイトを入れてみたらどうです?」
「そうだね、俺もそう思うよ、いいんじゃない。皿洗いだけでもやってくれれば二人少し楽になるし、お客さんにも迷惑はかからない。親父さんに相談してみたらどうかな」
それまで職人を公募することはなく、ほとんどが故郷信州の親族、知人の縁故で入店した独立希望の若者だった。
横山とすれば修行している立場なので、親方である正安に直接会って人を増やしてほしいとは言いずらかったのだろう。
昭和40年代、丸長のれん会の若者約30名が丸信、丸長、栄龍軒、大勝軒の屋号のもとに独立暖簾分けしていた。
彼らの多くはのれん会の創業者たちを慕って入店し、修行を終えた主に昭和10年代生まれの世代で、横山はその次の団塊世代だった。
光男はアルバイトを雇うことを父正安に進言した。
正安は橋場町で店を開店し、その後代々木上原に拠点を移していたので新店では働いたことがなかった。
その頃渋谷中華組合や商店街の役員で忙しくしていたこともあり、店の仕事の詳細はよく分かっていないようでもあった。
中野の店は横山に任せきりだった。
売上に見合った適切な人件費と判断したのか「分かった、大変だったな」と言って直ぐに了承した。
西条がアルバイトとして入店し暫く経ったころ、昼時間にカウンターを挟んで客となにやら話をしていた。
客がこちらをチラチラ見るので、光男は気になり西条になにかあったのか尋ねた。
「どうしたの何かあった」
「いや、なんでもないです。忘れないように紙に書いてるんです」
「何を」
「客の注文と席番号です、だめですか?」
「ええっ、あっ、そうかそうだよね。それがいいかもしれないね、ちょっと面倒だけど伝票ないから仕方ないよね」

どうやら客がその西条の行いを揶揄ったらしかった。
一人手が増えたことで、洗いものと会計をしてもらうだけでもランチタイムに余裕ができ、横山と光男の労働量は減り楽になった。


昭和58年頃の手書きメニュー


湯気の向こうの客


ある日の昼過ぎに横山が勝手口で誰かと話をしていた。

「珍しいお客さんが来てるよ」
「誰?」
「功ちゃんだよ」

光男が勝手口を出ると、待っていたのは叔父の山本功だった。
功は母光枝の7人兄弟の四男で、中学卒業と同時に長野から上京し、代々木上原大勝軒で暮らした。
その後所帯を持ち中野に移り住んで、駅前移転後は最初の店長を務めていた。
しかし元来の賭け事好きが原因で、営業に支障をきたしてしまった。
職人肌で味に関してはうるさく、お客さんからの支持も厚かった。
特に中野大勝軒の特徴である太く、柔らかい、うどんに似た形状のそばに作り変えたのは彼の功績だった。
根っから悪い男ではなく、腕もいいはずなのだが、営業時間を勝手に変更したり、内緒で定休日に営業をしてしまうなど問題を起こしてしまった。
正安が再三注意したにもかかわらず、他の従業員にも迷惑がかかったことで解雇せざるを得なくなったのだった。
その時取引先の商店で配送の仕事をしていた。

「なぁ光男、この間知り合いのお客さんに会ったんだが、お前のことを言っていた」
「えっ何て」
「あのなぁ、ちょっと態度が悪いそうだ、常連さんに対して」
「態度が…、悪い?よく分からない、何が悪いのだろう」
「愛想がないんだよ」
「愛想?」
「馴染みで来ている客には『いつものでいいですね』と言うんだよ、初めて来た客じゃないし、顔を覚えているんだから。例えば肉入りつけそばを食べる客だったら『肉入りでいいですね』とか自分から声をかける、もっと客を獲るようにするんだよ」
「いつものでいいですね・・・」
「そうだ、それが商売というものだ、お前は愛想が悪すぎるんだよ」

光男は飲食業で実務の接客経験は乏しかった。
大学時代に成城学園前のレストランでアルバイトをしていたが、仕事はホールの接客でなく厨房内でのデザート作りだった。
この店はチェーン店で、外資系などの大手ファミリーレストランが席巻するのはこれからという過渡期の頃である。
家庭の主婦、学生がマニュアルに沿って接客、調理するアルバイト、パートが外食産業の担い手になっていく。
個人店は主人が毎日店にいるわけで、ファミレスのパートのように人が入れ替わり立ち替わりということもなく自然に客とコミュニケーションもとれる。
パートのマニュアルは経験の少ないスタッフを即戦力とする方法であるわけだが、客は食べたいものを出してもらえればそれで満足なわけで、それ以上の御愛想は期待し過ぎになる。
スタッフの紋切り型の挨拶とセリフが悪いというのでなく、正確に品物が早く出てきてもらえれば客はそれほどファミレスのサービスにそれ以上のことは求めないだろう。
光男はこの時、サービスについてはそれほど深く考えておらず丁寧な言葉で応対すればそれで充分と思っていた。
接客自体が嫌いというのではなくむしろ好きな方だったが、愛想がないと言われるのは意外だった。

「なんで俺がそこまでする必要があるの、旨いもの出してまた来てもらえればそれでいいじゃないか」
「そういうもんじゃない、それだけじゃダメだ。通ってくれるお客さんが、新たにまたお客さんを連れてくる。邪険にしたらだめだ。もう慣れてきてんだからブスッとしてないで声かけるぐらいできるだろ」
「声を掛ける・・・・」

ただ集中してゲームのようなこの仕事に没頭しなければならない。
客を気遣うことなどの余裕はない。
今やっていることから、さらに『こちらのメニューでいいですね』と客にへつらうようなことが必要なのだろうか。
確かに嫌と言うほど客の顔を覚えている。
来店するうちに必然的に覚えてどの客が何を食べたか頭にインプットされている。
自分に話しかけてくる客は限られていて、会話するのはその人たちだけだ。それも短い挨拶のようなやりとりである。
しかし功にそう言われてみて光男は客とほとんど会話らしい会話をしたことがないことに気づいた。
先日もガラの悪い男に「いつもきてんだから愛想良くしてくれよ」と言われが返事もそこそこに、この人何言ってんだぐらいにしか思わなかった。功は胸のポケットからタバコを取り出し、火をつけると話を続けた。

「お前は考えが甘い、つべこべ言わずそうすんだ、それがこの店の伝統なんだよ」
「んー、声を掛ける・・・・なんでだろ、そこまでする必要があるのかな」
「必要だ、お前のことを心配していってるんだ、横山もあまり話す方じゃないし、お前がその代わりをやればいい、黙っていちゃダメなんだよ、客が注文するのを待っていたらダメなんだ」
「嫌いな客にでもそうするということ?」
「ああ、来てくれる客は良くも悪くもありがたいことなんだよ」

叔父である功に突然説教された光男は、果たしてそこまでやる必要があるのか疑問に思った。
一人の客の心を掴めば、その客がまた客を連れてくる、そうして客が増えていくという道理だった。
功は自分の経験からそのことを肝に銘じていたのだ。
確かにそれは間違いない。
当時の飲食店情報といえば口コミだけで、雑誌に少しでも紹介されれば大きな事件になり、ましてテレビで紹介されるなどあり得ないことだった。


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