旅路の果て
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
夏目漱石は『草枕』の冒頭でこう書いている。
興奮混じりに私がその本を読んだのが、27歳の時。
京都市にある精神科病院の閉鎖病棟で入院中のことだった。
「私の気持ちと同じ!」
そんなことを、白いカーテンで6つに区切られた部屋のベッドの上で思った。
***
逃亡の果て
私が高校を卒業するまで暮らした、京都府にある実家は映画『血と骨』(崔洋一監督作品)を彷彿とさせるような状態だった。
全世界が自分中心に回っているとでも思っているような暴力的な父親。それに振り回され、傷つけられ続けた母と姉と私。
私は、そんな暴力的な父親や、閉塞感漂う京都府の実家から大学進学を機に高知県高知市へと逃げ出した。
***
そんな私だったが、大学2回生の時の失恋をキッカケにして、リストカットをするようになる。
家族との関係性でもともと低かった自己肯定感が、失恋により破壊されたのだ。
「私なんか、、もう、生きていても仕方ない。」
そう思って自殺を考えた。
産まれてきたくなんて無かった。
何度も何度もそう思って一人涙を拭った。
それでも、どうしても死ねなかった私は、
結局、精神科に通うことになり、そこで鬱病とパニック障害と診断された。
***
そのまま私は大学4回生になったが、暴君のいる問題だらけの実家に帰りたくなかった。
そのため大学卒業後、
「もうこうなったら、誰も知らないところに行きたい。」と思い、
鬱病とパニック障害が完治しない状態でそれを秘密にしたまま、知り合いのツテで高知県四万十町に引っ越した。
そして、そこで介護士として働くことにしたのだ。
***
「ブタ箱」と呼ばれる寮での生活
私は、就職する前に、知り合いの言う通りに1度その就職先の身体障害者支援施設を見学に行ったが、特に自分でその地域のことを調べたりもせず、どこで住むなどのことを一切知り合いに任せきりにした。
「親切な人からの紹介だから、任せておいて心配ないだろう。」
とそんなことを思ったからだった。
しかし、実際はそんなに甘くなかった。
私は、社員寮に入ることになったのだが、そこは後々その施設の看護師さんの言うところの「ブタ箱」と呼ばれるような所だったからだ。
社員寮は、私が大学生活を送っていた高知市内から車で1時間程の山手にあった。
寮の前には四万十川水系の一級河川が流れており、その後ろには大きな山がドーンと窓からの視界を遮るようにそびえ立っていた。
ただそれだけで、周囲には畑や田んぼが広がり、
何回か、ここはテレビでよく見る中国の奥地なんじゃないかと思って一人笑ってみたりもしたが、笑っている状況ではなかった。
大学の時からの友達に、
「やばいところに来てしまった。」
と話すも相手にされず、
「そんなの川で釣りでもして楽しめばいいやん。」
などと言われ、さらに他の友達からは、
「そこに住んでる人に失礼だ!」
とも言われたりした。
ここで言っておくが、高知県四万十町は全く悪くない。
本当に悪くない。
だって、四万十町役場のホームページを見てみると、トップページにこう書いてあるんだもの。
にんげんにこれ以上何が要る
!!!
そうだ。確かにそうかもしれない。
ただ、その社員寮には、携帯の電波が届かず、ラジオも聴けなかっただけで。
たまたま、街灯がなくて日が暮れると外は真っ暗になっただけで。
オマケに夏になると、寮の廊下の明かりに虫!虫!虫!のオンパレードでカブトムシが1日に2匹捕れたなんてこともあっただけで。
***
そんな人里離れた淋しい場所で私は、プライベートを楽しむ余地など皆無の生活を続ける他なかった。
職場の身体障害者支援施設ではご利用者に文句を言われることも多く、尿瓶を投げつけられたり、認知症が入った方に顔を殴られたりしたこともあった。
夜勤もあり体力的にかなりキツく、知らない土地の人間関係にも馴染めず一人孤立した。
それでも、私には帰る場所が無かった。
無いと思っていた。
結局就職して2年目に、体重が減り過ぎたことが原因でご利用者を抱え上げることが出来なくなったことと、
過酷な労働で精神的にやられてしまい、実家の両親に今までの恨みつらみを電話で暴言として吐くようになってしまったことが京都市に住む叔父さん家族に知れて、
「なっちゃん、変な薬でもやってるんちゃうか?」
となり、私は高知県四万十町から京都に連れ戻されたのだった。
***
✨人生の好転✨
その後も、うまく行かないことが続いて私は統合失調症を発症したり、京都市の精神病院に入院したり、
人生のどん底を味わった。
でもそんな中で、私は父親からの「世間体が悪い!」という理由の大反対を押し切り、精神障害者手帳を姉に頼んで取得し、精神障害者として生きて行くことを決めたことで人生が好転して行く。
精神病院から退院後、私は実家には帰らずそのまま京都市のグループホームという施設に入所することにした。
そこでの安定した生活のお陰で、私は少しずつ体調を安定させて行くことができるようになっていった。
統合失調症の主な症状である幻聴は、今でもどうしても抑えることが出来ないが、
約9年間のグループホームの生活の中で、私は京都市の大学の事務アルバイト(障害者枠)に就き、そして趣味として始めた精神障害者ソフトバレーボールで岐阜国体と岩手国体に出場した。
全国大会ともなると、色々な出会いがあるもので、名古屋や大阪、埼玉にも精神障害を持つ同じ境遇の友達が出来た。
そして、嬉しいことにその精神障害者ソフトバレーボールで知り合った発達障害持ちの男性と結婚し、一般のマンションで暮らせるようになったのだ。
今は、大学の事務アルバイトは辞めて、割と知名度のある保険会社(障害者枠)でフルタイムで働けている。
さらにピアサポーターとして自分と同じ病気を持っている方の退院支援活動も行っている。
ようやく私にも幸せな日々が訪れたのだ。
***
最後に
THEE MICHELLE GUN ELEPHANTは、「ベイビー・スターダスト」でこう歌った。
天使はずいぶん悪魔に憧れていて
自分の羽をまっ黒に塗り潰した
どうしても角だけが生えてこないと
嘆く姿はどう見ても天使だった
私は天使ではない。
天使なんかじゃない。(矢沢あい)
ただの、
『悪魔にもなり切れなかった仲間を愛する統合失調症持ちの40代女性』だ。
でも、京都市で精神障害者手帳を取得してからの私は、まるで背中に天使の羽が生えたかの様に、自分の人生という大空を縦横無尽に飛び回り、謳歌することが出来るようになったのだ。
障害者枠で仕事を探して、理解のある職場で働けているし、自分のことを分かってくれる沢山の仲間にも出会えた。
そして何より障害を持ちながらも優しい旦那さんが側で笑っていてくれるから。
確かに高知県に行ってしまった当時を今振り返ると、本当に夏目漱石が『草枕』で書いているように、私は人の世は住みにくいと心底感じていた。
でも自分の障害をカミングアウトした人生は、今キラキラしている。
幸福を探す長い旅路を通して私は沢山の失敗をしてきた。
でも、ようやく『愛する人達』という名の中継地点に辿り着いて、私は今大いに幸せだ。
さあ、これから先はどんな旅路を歩んでいこうか。
愛と幸せに溢れた旅路にしたいものだ。