八正道の正精進について
暑いとその感情があまりにも大きくて、他の感情が小さくなる。
それにプラスしてお腹いっぱいだとより頭がぼーとする。
脳がとにかく休めと指令を出しているかのようだ。
自分の気持ちと向き合うために書いているのに、この時間に書くとお腹いっぱいで頭が満たされて他の気持ちと向き合うことが大変。
仏教の本に八正道が記されていた。
その中の一つに正精進があり、邪で不健全な心を持たず、努力するという意味である。
なぜ、邪で不健全な心を持たずに努力することが必要なことなのだろうか。
邪で不健全な心を持たずにまでは理解できるが、努力することが必要な理由がよくわからない。
別に努力しなくてもいいのではないかと思う。
努力することによって自己成長を感じて、嬉しい気持ちになることはあると思う。
だがしかし、努力をしなかった場合はどうなるのだろうか。
努力とは、物事に一生懸命を尽くすことという意味であるから、努力をしないということは、物事に一生懸命にならないということになる。
物事に一生懸命にならないことは確かにつまらないような気がする。
ハマっているゲームをやることを努力とは呼べないイメージだが、ハマっているゲームには一生懸命になれる。
つまり、邪で不健全な心を持たず、努力するということができている。
そして、ゲームをしているときは確かに楽しい。
ただ、一生懸命な気持ちが切れると良くない。ゲームをしていても気持ちは途切れる。
そして、ゲームは努力するべきものではないと認識して、今までの時間が勿体無いと思ってしまう。
自己成長のベクトルが違うように感じる。
今日は努力しようと昨日のうちから決心していた。
というか、毎日明日は努力しようと決心しているが、結局ちょっと休憩と思って始めたYouTube視聴やゲームがやめられず、多くの時間が経ち、もっと努力することができたのにと思う気持ちで1日が終わる。
努力することは楽しいことだと思えるけど、努力しようとすることはきつくてつらい。
きつくて辛いことをどうしてしたくないのだろうか。
手っ取り早くドーパミンのような脳にいい刺激が出ることをしてしまう。
なぜ手っ取り早くドーパミンが出ることはいいこととはされないで、目標に向かって努力することがいいこととされるのだろうか。
確かに、中学生のときの定期テストはきつかったけど、やりがいをとても感じていた。
その日その日を極限まで頑張って帰路についたときにとても開放感と達成感を感じたのを今でも覚えている。
頑張ってやり切った時に中学生のときと同じような開放感や達成感を味わうことができたら、それが幸せなことで、正しい努力の方向なのだと思う。
自分が正しいと思っていることに対してちゃんとした努力を積むことができれば、自己肯定感が上がるのだろう。
逆に、自分が正しくないなと思っていることに精を出してしまっては、自己肯定感が下がるのだろう。
結局はいいことをしたという、貢献感、そこから生まれる自己肯定感が幸福に直結するような気がする。